赦すのは難しいというイリュージョンを疑う

英語に「take for granted」という言い回しがあります。「あたりまえのことと思う」「当然のことと思う」という意味の熟語です。

最近、このブログでは、連日のように私たちのイリュージョンについて書いていますが、実はこの言葉、それがどのようなものかを表すのにピッタリなのです。

たとえば、次のように記述するだけで、

「We take it for granted that sins exist.」
(私たちはあたりまえのように、罪は存在すると思っている)

私たちが信じ続けているイリュージョンのひとつを簡単に描写できます。

そして、これがまさに今話のテーマです。今日は、「私たちは、自分や他人を赦すことができない」というイリュージョンを疑ってみようと思います。

まずこの話は、いくつかのイリュージョンが重なり合ってできているという点を確認しておきましょう。それらをていねいに、ひとつずつ解きほぐしていかなければ、本当のことは見えてきません。

また、ここでは、明らかに法律に違反する「犯罪」にまで言及するのはやめておきましょう。本質は何も変わりませんが、あえて警察沙汰にはならないような、私たちの日常で起こる範囲の出来事に限定します。

では始めましょう。最初のイリュージョンはこれです。

「自分が何らかの被害を受けたら、相手にも同じようなダメージを与えて報復しなければ、気持ちが晴れない」

やられたことを精算する、チャラにするという発想です。「目には目を、歯には歯を」といってもいいでしょう。

私たちが「この人だけは赦せない!」と感じるとき、そこにはかならず「悔しい!」「がまんならない!」という思いがあります。

そのような嫌な感情を抱えたままでは、自分だけが損をしていて不公平です。そこで、次のイリュージョンを創り出します。

「この人は明らかに罪を犯した!」

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログでも書いてきた通り、罪は単独では存在しえません。ただ「それは罪だよ!」と相手に告げるだけでは何の意味もないからです。

罪というイリュージョンは、かならずもうひとつのイリュージョンである「罰」とセットで私たちの前に現れます。

そして、罰という概念を登場させる目的はいうまでもなく、先の「相手にも同じようなダメージを与えて報復しなければ」の部分を正当化するためです。

これで私たちは、晴れて「罪を犯した相手には罰という名の報復をしていい」という、権利のようなものを手に入れられたわけです。

でも残念ながら、その考えはイリュージョンにすぎません。次のように自分自身に問いかけてみれば、なぜそうなのかがわかります。

「私は、報復のために相手を苦しめることで、本当に気が晴れるのだろうか?」

バックナンバー「赦すことで相手が恐くなくなった女性の実話」で私は、同僚を赦せないと感じるAさんにこう質問しました。

「たしかに彼女の対応には問題があったと思うけど、その罰としてこんな地獄を見なければならないのかな?」

彼女は涙ぐみながら、「それは違うと思う」と答えました。

怒りに溺れている状態ではすっかり忘れてしまっているかもしれませんが、これこそが私たちの本質なのです。

どれだけ「悔しい!」「仕返ししたい!」「自分と同じくらい痛い目に遭わせたい!」と感じたとしても、私たちはけっして、

「人の苦しむ姿を見て心から満足するような、冷酷で残酷な存在ではない」

ということです。

たしかに、日々、自分を不快にさせている人が、何かのミスをやらかして上司にドヤされている場面を見たら、「ざまあみろ!」と、少しは気晴らしができたように感じるでしょう。

では、その人がさらにミスを続けて、まわりのスタッフ全員から無視され、陰湿ないじめを受け、やがて退職に追いやられるような状況にまで陥ったとしたらどうでしょう。

しかも運わるく、そのタイミングであなたが、彼の机に置かれた家族の写真まで見てしまったとしたら……。

相手の言動があまりにひどかった場合は、「これで嫌いな人が消えた」と思う気持ちはゼロではないかもしれません。けれども、それで完璧に気が晴れて、一点の曇りもなくしあわせと感じられるでしょうか。

繰り返しますが、私たちはそこまで冷酷で残酷にはなれないのです。

つまり、

「罰とは、頭の中ではそれによって嫌な思いが解消されると思っていても、実際には自分に何の救いももたらさないイリュージョン」

であるということです。

罰がイリュージョンならば、それを生み出すために創られた罪もイリュージョンです。この事実に気づければ、私たちの中から「赦さない」という選択肢は消えてしまうはずです。

もし、それでも「いや、そう簡単にはいかない」と思うとしたら、もうひとつの幻影があなたの心をガッチリと捕らえています。

それは、

「この世には、自分とはまるで異質な、生まれながらの極悪人がいる!」

というイリュージョンです。

私たちはおそらく、次のような流れでこの考えにたどり着きます。

「相手にも同じようなダメージを与えて報復しなければ、気持ちが晴れない」
 ↓
「相手は罪を犯した。だから罰を受けて当然だと考えればいい!」
 ↓
「でも、相手が苦しむ姿を見るのは、けっして気持ちのいいものではない」
 ↓
「どうしよう……。このままでは行くも地獄、引くも地獄になってしまう」
 ↓
「そうか、相手は自分とは違う、生まれながらの極悪人だから苦しんで当然だ! その様子を見てこちらが心を痛める必要などなかったんだ!」

まさに最近、メルマガや『グッドモーニングバイブス』というポッドキャスト番組で、佐々木正悟さんが解説してくれている、レオン・フェスティンガーの「認知的不協和の解消」です。

たしかに、何かが解決したような感じがしなくもありません。けれども、これを続けた先に待ち受けているのは、間違いなく「おぞましい世界」です。

なぜならば、この判断をすればするほど、

「あなたのまわりに、生まれながらの極悪人が増えていく」

ことになるからです。

実際にそう考えることによって、本当は感じる必要のない「恐れや不安」をもちながら暮らす人は少なくありません。その感覚がさらに極端に振れれば、「自分以外に信じられる人間はこの世にいない」と思うところまでいってしまうでしょう。

さらにいえば、その幻影は最後には自分さえも対象にします。あなたが罪悪感を抱くような間違いを犯したときに、「もしかしたら私は、生まれながらの極悪人なのかもしれない」と自分を疑うことにもなりかねないのです。

でも安心してください。すべては、私たちが「罪と罰」をなんとか存続させようと無理やり創り出したイリュージョンにすぎません。

バックナンバー「グッドバイブスとひとつ意識の関係」で書いたように、生まれたばかりの私たちは、ひとりの例外もなくグッドバイブスだったはずです。

同じくこの記事にあるように、すべての「おかしな言動」は「恐れや不安」から生まれたものです。けっして、「おかしな人格」だからひどいことを言ったり、不愉快なことをするわけではないのです。

今日の話をまとめましょう。

「罪と罰」がイリュージョンなら、「たしかにある!」と判断しなければ、それはあなたの人生に存在することはできません。

「罰を与えれば気が楽になる」も「極悪人がいる」も、同じようにイリュージョンでした。あなたがその事実を認めた瞬間に、どちらも消えてなくなります。

そうして残るのはたったひとつの現実だけです。

「自分や他人を赦していない状態ほど、自分を苦しめるものはない」

罪や罰に関わるイリュージョンの濃い霧が晴れてこの事実が見えたなら、私たちにとっての「赦す」はほかでもない、「自分のしあわせのためだった」ということを思い出せます。

つまり、あえてしあわせを拒むのでなければ、「私たちは、自分や他人を赦すことができない」などということはありえないのです。