「過去の幻影」を切り離してすべてを見直す

このブログにもっとも頻繁に登場する話題のひとつに「いまここ」があります。

ただ、これまでは、「未来を意識するといまここにいられない」という文脈の中で、このテーマについて解説することが多かったように思います。

未来はもちろん、現実には存在しないバーチャルな時間です。でも、私たちの中にはもうひとつ、やっかいな幻が居座り続けています。それが、

「過去というイリュージョン」

です。

そこで今日は、私たちが「いまここ」にいようとするとき、どのようにして過去がそれを阻むのかについて書いてみようと思います。

私たちにとって未来は、いつでも「まだ見たことがない時間」です。だとしたら、「それはいま存在していない」と言われたとしても、心の底から納得できないまでも、それほど違和感をもたずに「なるほど」とは思えるはずです。

これに対して、「過去という時間も実在しない」という意見に同意するのは、けっして簡単ではありません。なぜならば、自分にとっての過去はすべて、

「たしかに見たことがあって、絶対に存在していた時間」

だからです。

でも、「そこに行くことも、そこで何かを行うこともできない」という意味では、未来と同じく、やはり私たちの頭の中にしかない、イリュージョンであることは間違いないのです。

いま実在していないのに、概念としてもっていたいと望むのなら、過去という時間には何らかのメリットがあるはずです。私たちにとってそれはどのようなものなのでしょうか。

その答えを解き明かすために、「あなたが新しい仕事に就いたとき」のことを思い出してみてください。新卒で入社した場面でも、転職して新しい職場に入った場面でもかまいません。

とにかく「未知の仕事を始めるときの心境」をイメージしてほしいのです。

しばらくのあいだは日々、「新しいこと」や「未体験のこと」の連続であるはずです。もちろん、出会う人々もみな「初対面」です。

おそらくあなたは、

「けっして気を抜けない!」

という緊張感の中にいるはずです。

ところが、1週間、2週間と時間が過ぎ、1か月ほど経ったころには、かつてと比べて真新しい出来事は激減しています。なぜならば、ほとんどのことに「経験済み」のラベルが貼られていくからです。

この状態を私たちは、

「慣れた!」

と呼びます。

いわゆる「新しい仕事にも慣れてきた!」と思える瞬間です。それはすなわち、仕事の中で登場することの多くが、

「繰り返しのパターン」

に変わったことを意味します。

そして、私たちは自分の目にする景色が、一定のパターンを描くように見えたとき、その対象について、

「知った! わかった! 把握した!」

と感じるのです。「見切った!」といってもいいでしょう。

すでに気づいている人も少なくないと思います。私たちがこの「見切った!」の状態を創り出すためには、どうしても「過去」という時間が不可欠なのです。

なぜ見切る必要があるのかの理由はとても単純です。すでに書いたように、「新しいこと」や「未体験のこと」の連続では、「けっして気を抜けない!」という緊張感から解放されないと信じているからです。

この状態から抜け出すために、私たちは、できるだけ多くの「同じように見える事柄」を過去の中に探そうとします。

ひとつでも見つけられたら、それらをパターンとして認識できるように、頭の中で「これはこういうものの仲間!」という、

「グループ化と固定化」

を同時に行います。

ややわかりにくければ、私たちが自分以外の人をどう見ているかをイメージするのがいいでしょう。

たとえば、自分が所属する部署に30人のスタッフがいたとします。当然、私たちはそれぞれについて「この人はこういう人」という印象をもっています。

でも、それが人数と同じ30通りになるかというと、けっしてそうではありません。人に対して、先の「見切った!」の状態を得るためには、それではあまりに煩雑すぎるからです。

そこで、ここでも同じ「グループ化と固定化」を行おうとします。具体的には、

「過去に体験した相手の言動に基づいて、怒りっぽい人、親しみやすい人、気を遣うべき人、大切にすべき人、それなりに軽く扱ってもいい人などの分類をする」

ということです。

過去という時間と私たちの関わりについて、ここまでを整理しておきましょう。

私たちは未知の出来事に対して「恐れや不安」を感じます。そこで、何とか「知っている状態」を創ろうとして、過去に見聞きしたことを元に「グループ化と固定化」を行います。

つまり、

「過去とは、私たちに安心をもたらしてくれる、分類のための大切な根拠」

であると言えるわけです。

いよいよ、今日の話の核心に近づいてきました。実はここに、過去という時間が私たちを「いまここ」から遠ざけてしまう最大の要因が潜んでいるのです。

もし、「グループ化と固定化」が私たちに安心をもたらすとするならば、

「いったん見切ったモノを変更してしまっては意味がない」

ということになります。

ぜひ、リアルにイメージしてください。自分が一度、「怒りっぽい」というフォルダーに入れてしまった人が、「親しみやすい」フォルダーに入れてもいいような行動をとったとしたらどう思うでしょう。

すでに、「とても面倒でやりたくない」というフォルダーに仕分けずみの仕事に対して、「実はけっこう楽しいかも」と感じてしまったとしたらどうでしょう。

おそらく、せっかく苦労して「グループ化と固定化」を終わらせたのに、またあの緊張感のある「よくわからない」状態に戻るのは、精神的なコストが高いと感じるはずです。

その結果、私たちは、「いや、そんなことはありえない!」と自分を納得させ、

「いま目の前で起こっていることを認めない」

という、おかしな選択をしてしまうのです。

先の例でいえば、「親しみやすい行動」を目撃することも、「実はけっこう楽しいかも」と感じることも、すべては「いまここ」で起こっている現実の出来事です。

けれども私たちは、「いったん見切ったモノを変更するのは不安」という理由で、それらに目を向けようとはしません。

その代わりに、人や物事がまとっている、

「過去の幻影」(the past illusion)

のほうを見ようとするのです。

あらためて言うまでもなく、この世界に絶対に確実な「繰り返しのパターン」が存在するという発想も、人や出来事を「グループ化と固定化」すれば見切れるという考えも、すべてイリュージョンです。

私たちが大きな悩みを抱えるのは、決まってそれまで信じていたパターンが崩壊したときだという事実を、ぜひ思い出してください。

「いままでうまくやれてたのに、なぜ今回はそれが通用しないの!?」
「どうして、これまで慣れ親しんだやり方が変えられてしまうの!?」

と衝撃を受けるあの感じです。

それは、繰り返しが崩れたのではなく、

「まったく同じことは二度と起こらない」

というこの世界の本当の姿と、そのような世界における「パターン化」や「グループ化」の無力さが、同時に証明されただけのことです。

「いまここ」とは、けっして「せっかく見つけた安心の法則を壊すやっかいな時間」ではありません。
そうではなく、

「いったんは負のフォルダーに入れてしまった人や物事の意味を、自分にとってしあわせなものに塗り替えてくれる奇跡のような時間」

なのです。

このことがわかれば、過去という時間は、私たちに「いまここ」にいるための大きなヒントを教えてくれるようになります。

もし、あなたが人や仕事や出来事など、何かの対象に、条件反射のように「負のイメージ」を抱くことがあったら、過去にしてしまった「グループ化と固定化」を疑ってください。

そして、あたかもそれを初めて目にするかのように、

「過去の幻影(the past illusion)を完全に切り離した状態で、あらためて見直す」

ことにトライしてください。

それまで大嫌いだった人、苦手だと思っていた仕事、二度と手を出さないと決めていたこと、絶対にそうだと譲れなかった正しさ。それらすべてが、まったく別の姿を見せてくれる瞬間を体験できるはずです。

このとき、あなたは間違いなく「いまここ」にいます。未来と同様に、過去もまた、キッパリと手放すことで「いまここ」へのワープゾーンに変えられるということです。