「人は負の感情を抱く生き物」を疑う〜後編

今日も前話に続いて、「人間は感情の生き物である」という言葉に象徴される、

「人間は負の感情を抱くのがあたりまえ」

という説を疑ってみようと思います。

まずは、これまでの流れを整理しておきましょう。この話の前提には、自分自身を次のように捉える考え方があります。

「私たちは、しあわせな存在としてこの世に生まれてきた」

そのうえで、私たちの「望ましくない感情を抱くメカニズム」を見直してみます。すると、それは外的な要因によって、自分の意志とは無関係に、条件反射のように沸き起こるのではないことがわかります。

そうではなく、

「出来事や他人の言動→意味づけ→感情」

の図式で表されるとおり、「この出来事には悲しいという意味をつけよう」「この人の発言にはムカつくという意味をつけよう」といった、自分自身の判断、すなわち「意味づけ」から、私たちの「負の感情」は生まれているのです。

ここに、前話の終わりに提示した、次のような大きな疑問が生まれます。

「なぜ、しあわせな存在であるはずの私たちが、自ら進んで自分を不幸にするような負の意味づけをしてしまうのか?」

この不可解な謎さえ解けてしまえば、「人間は負の感情を抱くのがあたりまえ」という説は事実ではなく、イリュージョンであることが明らかになります。

そしてそのためには、前話で書いた「負の意味づけをする明らかな目的」を探る必要があるのです。

たとえばある企業で、さまざまな部署を集めた「新製品の企画についての意見交換会」が行われたとします。

もしこの場で、「非の打ち所のない素晴らしい製品だ!」「これなら売れること間違いない!」などと、前向きなことしか言わないスタッフがいたとしたらどうでしょう。

はっきりとは口に出さないまでも、ほとんどの参加者は「コイツ、なんのために出席してるんだ」と感じながら、彼の発言にまったく価値を見出せないでしょう。

反対に、「競合製品との差別化できていない」「マーケットに訴求する魅力が足りない」「コストがかかりすぎる」など、他の人が気づかないリスクを、微に入り細に入り指摘する人は、「さすがにこの人は目のつけ所が違う!」などと、大いに評価されるはずです。

先の前向きな意見と比べて、どちらがこの製品にふさわしい見解であるかに関わらずです。

なぜならば、私たちは無意識のうちに、次のような正しさをもってしまっているからです。

「脳天気で前向きな考えには意味がない。自分にとって都合のわるいことを思いつけば、そのアイデアが自分を守ってくれる」

「明日の仕事がどうなるか?」を予想するとき、「すべてうまくいく」という結論は何の役にも立たないと判断されます。

「この人の発言にはどんな意図があるか?」を考えるときもまったく同じです。「悪意などひとかけらもない」では、そもそも考えた意味がないのです。

「準備不足かもしれない」「ここで失敗するかもしれない」とわるいことを思いつけば、その対策を講じることで自分の身を守れるような気がします。

「コイツは自分を攻撃している」と判断しておけば防御の体勢をとれるので、考えた甲斐があったと納得できるわけです。

これが、私たちの行う「意味づけ」の本質です。

何かの出来事や他人の言動に直面したとき、私たちは頭の中で「それが自分にどのような影響をもたらすか?」を瞬時に判断しようとします。

そして、その内容はいつでも、

「自分にとって望ましくない結果」

でなくてはなりません。

こうして私たちは、「望ましくない」と判断した度合いに比例して、「望ましくない感情」を抱くようになります。「この人の発言はひどい!」と判断すれば、「ひどい」分だけ「怒り」の感情を抱くということです。

つまり、私たちは毎秒、毎分、次のようなトレードオフを行っているのです。

「たとえ負の感情を抱いて、しあわせな状態を放棄することになったとしても、自分の身を守るためには、できるだけ望ましくない意味づけをしておくほうがいい」

これで、前話からの懸案だった「負の意味づけをする明らかな目的」の正体が判明しました。目的は「自分の身を守るため」です。

それによって沸き起こってしまう「望ましくない感情」は、薬の副作用のように、甘んじて受け入れるしかないとあきらめます。すなわち、「自分も他の人も、負の感情を抱くのがあたりまえ」という結論で納得しておくわけです。

けれどもここで、人生最大級のイリュージョンにだまされてはいけません。「自分にとって望ましくない結果を想定しておけば安全」という発想に基づく、

「負の意味づけは、けっして自分を守ってくれない」

のです。

その理由は、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログで繰り返し書いてきたとおりです。「負の意味づけ」と「負の感情」は、守ってくれるどころか、少なくとも2つのよくない影響を私たちにもたらします。

・ 望ましくないことを考えることで、膨大なエネルギーを消費する。
・ 出来事や他の人につけた「負の意味」が、望ましくない出来事と、望ましくない人々を自分のまわりに創造してしまう。

残念ながら、私たちが信じていた「明らかな目的」には、最初から期待するほどの効力などありませんでした。それは副作用のある良薬ではなく、状況を悪化させるだけの偽薬だったといってもいいでしょう。

私たちはずいぶんと長いこと、この深い霧のようなイリュージョンに幻惑されて生きたのです。

それらを振り払って「本来の自分」を取り戻すためには、これまで見てきた2つの事柄を認識しなおす必要があります。

まずはこれです。

① あなたはしあわせであるのがあたりまえの存在である。

「負の感情を抱くのがあたりまえ」ではなく、「平安な心」があなたの本来の姿です。「悩みがない自分がむしろ不安」「もめ事のない関係は続かない」などという考えは、いますぐ無条件に手放してください。

もしそう思うとしたら、ゴミだらけの汚部屋で暮らすのに慣れてしまっただけのことです。あなたが住む家は、ホコリひとつないピカピカの新築であったことを思い出してください。

次にこれです。

② 望ましくない「意味づけ」には、あなたを守る力などない。

たとえば、ある人から送られてきたメールの文面に、あなたがひどく腹を立てていたとします。その原因はもちろん、あなたが「こんな文章を送ってくるなんてひどい人だ! 私は深く傷つけられた!」という意味をつけたからです。

もし、あなたの身近に、たまたまそのメールの送り主をよく知る人がいて、「いや、彼はあなたが思うような人ではないし、その言葉にはあなたが感じているような意図はないはずだよ」と言ったとしたらどうでしょう。

あなたは、「あ、そうなんだ!」と、いったん抱いてしまった怒りをあっさり引っ込めるでしょうか。十中八九、そのような選択をしようとは思えないはずです。

おそらく、本来、救いであるはずのアドバイスを受け入れる気にはなれずに、いろいろと理由を探しながら、依然として怒りを保持しようとするでしょう。

このとき、あなたの中には3段階の引っかかりがあります。

「いったん抱いてしまった怒りを収める」
 ↓
「負の意味づけを取り消さなくてはならなくなる」
 ↓
「負の意味づけによって、自分を守るという目的が果たせなくなる」

前話で「いったん抱いてしまった感情はコントロールすることも抑え込むことも不可能」と書いたのはこのためです。

だから、自分を不幸にするような「望ましくない感情」を抱く前に、

「その原因となる目的を手放す」

のです。

そろそろこの話をまとめましょう。前後編にわたっていろいろと書いてきましたが、具体的に行うことはたったひとつしかありません。

出来事や他人の言動に対してザワつきを感じたら、その瞬間に、

「いま自分は間違った意味づけをした!」

と素直に認めて、それまでに下した判断をすべて白紙に戻すようにします。

なぜならば、あなたは「いつでもしあわせでいるのがあたりまえの存在」だからです。そのあなたに「望ましくない感情」を抱かせられるのは、この世界にあなたひとりしかいません。そして、これまで見てきたように、それをすることには何の意味もありません。

つまり、

「自分に負の感情を抱かせる負の意味づけは、例外なくすべて間違っている」

とみなせばいいのです。これだけで、人生はとてもシンプルになります。

「意味づけを手放すのは難しい」という話をよく聞きますが、それは「間違っている」という認識が十分ではないからです。

ピカピカの新築の家にゴミ落ちていれば、躊躇することなくすぐに清掃するのと同じように、「いつでもしあわせであるのがあたりまえの存在」であるあなたの中に、間違っていることが確実な「負の意味づけ」が侵入したときは、いっさいのメリットを感じることなく、即座に取り除いてください。

けっして妥協することなくこのことを実行し続ければ、私たちは「人間は負の感情を抱くのがあたりまえ」というイリュージョンから抜け出すことができるのです。