「人は負の感情を抱く生き物」を疑う〜前編

「人間は感情の生き物である」という言葉があります。誰もが「そのとおりだ」と賛同するしかない、ごくごくあたりまえの話のようにも見えます。

ただ私は、この説には2通りの読み解き方があるように思うのです。

ひとつは、

「私たち人間は、五感で捉えた対象に、感動を抱ける生き物である」

という、私たちの豊かな感性について言及しているという解釈です。

こちらに関しては、私もまったく異論がありません。自分の人生を振り返ってみても、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚で捉えたさまざまなものに驚き、心を動かされ、多くの刺激を受けながら生きてきたように思うからです。

でも、一般的に「人間は感情の生き物である」の意味はそれだけではありません。

「怒りや悲しみなど、苦しい感情を抱くのも、また人間の宿命である」

という、先の「感動」とは表と裏の関係にあるような、負の解釈も含まれているのです。

そして多くの人は、「私たちが怒ったり憤ったり悲しんだりするのは、そういう生き物なんだから仕方ないこと」と、こちらの説も無条件に受け入れながら暮らしています。

今週はずっと「イリュージョン」について書いてきました。さすがに、前話の「いまここ」ほどの自信をもって断言はできないのですが、私はこの「人間は負の感情を抱くのがあたりまえ」という考えも、実は現実ではなく、イリュージョンではないかと疑っています。

もちろん、だからといって「負の感情を抱いてはいけない!」などと主張するつもりはまったくありません。そうではなく、

「私たちが自分を苦しめるような望ましくない感情を抱くのは、条件反射や自然現象のようなものではなく、明らかな目的があって、自ら意図的にやっていることではないか?」

という疑念が拭い去れないのです。

ほかでもない、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』で書いた「意味づけ」の話も、この仮説に基づくものです。当然、私はその筆者として、その「意図的にやっていること」を「意図的に手放す」試みを続けてきました。

その結果、少なくとも現在の私のなかでは、「人間は負の感情を抱くのがあたりまえ」という説はまったく真理ではなくなっています。グッドバイブスの取り組み以前と比べると、圧倒的に怒りや悲しみといった、本来もちたくない感情から解放されるようになったからです。

このような話をすると、たいていは「どうやって感情をコントロールするんですか?」「感情を抑え込んだら、余計にストレスが溜まらないですか?」といった質問が寄せられます。

残念ながら、いったん抱いてしまった感情をコントロールすることは不可能です。ましてや、それを「抑え込む」などという荒技もできるはずがありません。

私たちがどうにかできるポイントは一点だけです。それは、先に挙げた疑念の文言に含まれる「明らかな目的があって」の部分です。

「感情をコントロールするのではなく、その原因となる目的を手放す」

ということです。

そこで今日は、この「目的を手放す」とは何を意味するのかについて詳しく見ていこうと思います。

まずは、この話の大前提として、

「私たちは本来、どのような状態で生まれてきたか?」

という、自分自身の出発点を認識することが重要です。

私はこれまでに、何十人もの「子どもをもつ両親」に次のことをヒアリングしてきました。

「あなたのお子さんが生まれたばかりのとき、グッドバイブスでしたか?」

グッドバイブスとは「恐れや不安」のない「平安な心」をもつ状態です。そしてそれは、いっさいの望ましくない感情をもたない、しあわせな状態でもあります。

幸いなことに、すべての人が「間違いなくグッドバイブスだった」と答えてくれました。それだけでなく、ほとんどの親は、「生まれたばかりどころか、2、3歳まではそうだったと思う」と証言しています。

ここが、私の仮説が成立するかどうかの最大の分岐点になります。もし、親たちが感じたとおりだとすると、

「私たちは、しあわせな存在としてこの世に生まれてきた」

ことになるからです。ひとまずは「そういう可能性がある」としておきましょう。

次に問題になるのは、「望ましくない感情を抱くメカニズム」です。拙著やこのブログで書いてきたように、私たちの感情は出来事や他人の言動などに反応して、自動的に沸き上がるわけではありません。

「出来事や他人の言動→感情」

という図式ではないということです。

この2つのあいだには、かならず「その対象を自分でどのように解釈したか?」という判断が入ります。拙著でいうところの「意味づけ」です。

「まさか!」と思うかもしれませんが、次の2つのケースを検討してみれば、けっして私たちの「望ましくない感情」が、条件反射のように自然発生していないことがわかります。

ひとつは、

「同じ言葉なのに、相手によってはムカつかないことがある」

という例です。

あなたの親友のAさんが、初対面のBさんを連れて飲み会にやって来たとします。しばらくして、気心の知れたAさんが、「お前は本当に自分の自慢話が好きだな」と言ったとします。

あなたは、「うるせえよ! いいだろ!」などと返しながらも、とくに腹も立てずにやり過ごすでしょう。ではその直後に、この日に会ったばかりのBさんが「たしかに、自慢話が好きですね」と言ったとしたらどうでしょう。

おそらく、あなたは「ムカッ」として、Bさんの発言を不愉快に思うでしょう。Aさんの同じ言葉をサラッと流したにも関わらずです。

ここでは、次のような判断がされているはずです。

「お前はまだ親しい間柄じゃないんだから、そういう失礼なことを言うなよ!」

まさに、他人の言動と感情のあいだに「意味づけ」が挟まれている好例です。

もうひとつのケースは、

「同じ対象なのに、恐怖を感じない人がいる」

というものです。

あなたが「恐い!」と思うものをひとつイメージしてください。私なら、「高いところ」や「は虫類」などを真っ先に挙げます。

では質問です。あなたや私が恐いと思う対象は、すべての人にとって同じように「恐い!」ものでしょうか?

深く考えるまでもなく、答えは「NO!」です。世界中の人が私と同じだとすれば、高層ビルの工事や、は虫類の研究を生業にする人はこの世からいなくなってしまいます。

先のBさんの例と同じように、ここにも何らかの判断、すなわち「意味づけ」が混入しているということです。

私の場合なら、

「幼稚園のときにジャングルジムから落ちて呼吸ができなくなった。だから、高いところは絶対に恐い!」

といったところでしょうか。

当然、そのような苦い経験をしたことがない人は、「高いところ」に「恐い」という意味をつけずにすむわけです。

この2例に沿って、先の図を書き直しておきましょう。

「出来事や他人の言動→意味づけ→感情」

これが、本当の「望ましくない感情を抱くメカニズム」です。

ここまでを読んで、すでに「あれ?」と違和感のようなものを感じている人も少なくないと思います。

先の、

「私たちはグッドバイブスを携えて、しあわせな存在として生まれてきた」

という話と、

「出来事や他人の言動に、本来はもちたくないはずの、望ましくない感情を沸き上がらせる意味づけを自分で行う」

という話を並べて眺めてみると、大きな矛盾があるように思えないでしょうか。

「なぜ、しあわせな存在であるはずの私たちが、自ら進んで自分を不幸にするような負の意味づけをしてしまうのか?」

実はこのおかしな行動にこそ、私たちが自分の意志で「望ましくない感情」をもたない選択をするためのヒントがあるのです。

このまま続きを書きたいのですが、すでに3000文字を超えてしまいました(笑)。一話完結を貫いてきたこのブログ初の前後編ということで、続きは来週の月曜日までお待ちください!