知ろうとすれば過去のループから抜け出せる

最近、イタリアのスイーツ「マリトッツォ」が国語辞典に掲載されるというニュースを観ました。私は、この新しい食べ物を初めて見たときの反応は、人によって大きく2つに分かれると予想します。

ひとつは、ごくごく素直に「美味しそう! 食べてみたい!」と感じる人たちです。

もうひとつが、映像や写真を目にした瞬間に「ああね。柔らかめのパンに生クリームがどっさり入ったやつでしょ。でもって、果物なんかの具が入ってるのね。はいはい」と、まるで食べたことがあるかのような、やや冷めたリアクションをする人たちです。

そもそも、甘いものが好きかどうかでも反応は異なるでしょう。でも私は、両者の根本的な違いは、私たちの「ものごとの捉え方」から生まれているように思うのです。

◎ 見たり聞いたりしながら「頭の中のインデックス」を検索する

じつは、マリトッツォのようなケースに限らず、私たちは日常の中で後者の「冷ややかな反応」を頻繁にやっています。

たとえば、私も新しいミュージカル映画の感想を聞かれて「ウェストサイド物語の音楽をいま風にして、役者の演技力をCGで補っている感じかな」などと答えてしまうことがあります。

あるいは、知人からある本を読んでおくほうがいいかをたずねられ「うーん、あれは○○と○○と○○からいいとこ取りをして中身を薄めたようなものだから、ネタ元の3冊を読めばこと足りるんじゃない?」とアドバイスするのにも似ています。

おもしろいことに、このような反応をするとき、私たちの心はおおむねネガティブなほうに動き始めています。ほどなくして「だから食べなくていいんじゃない?」「だから観なくていいんじゃない?」「だから読まなくていいんじゃない?」と結論づけるでしょう。

なぜそうなるかの理由は「冷ややかな反応」をするときに、私たちがやっていることを紐解いていけばわかります。

まず、マリトッツォを五感で捉えます。写真や映像を目で見て、解説が添えられていればそれを耳で聞きます。もちろん、この情報だけでは、それがどんな食べ物でどんな味がするかはまったくわかりません。

そこで、私たちは頭の中にある「インデックス」をたどり始めます。それは、過去の記憶を元に作られたデータベースのようなもので、それなりに細かく分類され、好きだったか嫌いだったかなどのフィーリングもタグ付けされています。

マリトッツォの場合なら、最初に「大量の生クリーム」が目につくでしょう。頭の中のインデックスを検索すれば、すぐに「かつて食べたことがある白くて甘いアレ」が見つかります。これだけでも、目の前の新しいスイーツの味はかなり具体的になるはずです。

同じように、今度は「柔らかめのパン」に近いものをインデックスから探します。フランスパンや食パンは少しイメージが違います。おそらく、パンケーキかシフォンケーキあたりを想像して、頭の中で大量の生クリームを挟んでみるでしょう。

これを繰り返していけば、イチゴ入りや抹茶入りなど、どんなマリトッツォでも自由自在に思い描くことができます。

こうして、私たちは「ああね、はいはい」といった反応をしているわけです。

本や映画の場合もこのプロセスに変わりはありません。ひとつの作品を読んだり観たりしながら、ある部分を頭の中のインデックスに照らし合わて「○○風のアレ」と言っているのです。

つまり「冷ややかな反応」は、五感で知覚したものを記憶のインデックスに合致させながら、

「知っている状態を得る」

ことで生まれるということです。

そして、これこそが、新しいものに遭遇しても「○○しなくていいんじゃない?」とネガティブなほうに心が動く理由でもあります。

なぜならば、頭の中で「知っている状態」が作れたのであれば、もうそれについて知る必要はなくなってしまうからです。

◎「認識」とは知らないものから自分を守るための防御

「知る」とは、それまで未知だった何かを見たり聞いたり体験したりすることを指します。これに対して「認識」は、ある事柄について「自分は知っている」という事実を確認する行為にほかなりません。

つまり、先の「五感で知覚したものを、記憶のインデックスに合致させながら知っている状態を得る」は、まさに「認識」そのものだったということです。

すでに知っているものを「知る」ことはできないし、知らないものは「認識」できないと考えれば、両者を区別しやすくなります。

だとしたら「ああね、はいはい」と反応した人は、ずいぶんと妙なことをしていると思わないでしょうか?

彼や彼女にとって、マリトッツォはまだ食べたことのない未知のスイーツです。本来なら「知る」場面であるはずなのに、なぜこの人は「認識する」ほうを選んだのでしょうか?

このように掘り下げていくと大きな矛盾を感じますが、じつは、誰もが無意識のうちに同じ選択をしているのです。

たぶん、私たちは「知ろうとしなければならない」状態をあまり歓迎していません。なぜならば、それは自分が「知らないもの」に遭遇したことを意味するからです。

もし、相手が危険な存在なら身を守る手段を講じなければなりません。それなりに安全だとしても、どこまで心を許していいかは測りかねます。そのような、どう対処していいかを「知らない」状況は、私たちに強烈な「恐れや不安」を抱かせます。

さらに、私たちは「知るためには多くのコストがかかる」と信じています。時間をムダにしたくない、なるべくエネルギーを節約したいと思えば、できるだけ「知ろうとしなければならない」状態は避けようとするでしょう。

こうして私たちは、未知のものを見ても「知らない」とは認めずに、なんとか「認識」を駆使して「知っているもの」として処理するようになったと私は考えます。

言い換えるならば「認識」は、

「知らないものに遭遇する恐れや不安から自分を守るための防御」

にもなりえるということです。

けれども、少し冷静になって考えればわかるように、じつは「認識」という防御は、多くの場合、気休め程度の効果しか発揮してくれません。実際に、マリトッツォの本当の味や食感を体験せずに冷ややかな反応する人は、ただ「知った気」になっているだけです。

まさに、バーチャルな「知っている」状態、すなわちイリュージョンを作り出しているだけではないでしょうか。

それでも私たちは、右も左もわからない入社したてのおぼつかなさや、初対面の人に感じる緊張をしっかりと記憶に刻んでいて、いつもこの方法に頼ろうとするのです。

◎ 同じことを繰り返さない「天然もの」は知ろうとするしかない

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』では、この知覚したものを頭の中のインデックスに一致させる行為を「意味づけ」と呼びました。フィーリングもタグ付けされた過去の記憶を別の何かに当てはめることが、そのまま判断や解釈になるからです。

その仕組み上「認識」にはからなず何らかの「意味づけ」が伴うといってもいいでしょう。

残念ながら、これによって私たちは、対象を「ありのままに知る」ことができなくなります。

自由に発言していいとされていたブレスト会議で、他の人の案にいちいちダメ出しをしたくなるのもこのためです。本来、そこでの発言はすべての参加者にとって未知であるはずです。けれども、多くの人はそれを「知っているもの」として扱いたいと思い、つい「認識」のほうを用いていしまうのです。

もし「組織にイノベーションが起こらない」と感じたら、この点を疑ってみてください。メンバーの捉え方が記憶のインデックスに頼る「認識」に偏れば、かならず過去を繰り返すループに陥いってしまい、新しいものは生まれなくなります。

「頭が固い」と言われる人にも同じような傾向があるはずです。彼らは他の人のアイデアやアドバイスを聞いても、けっしてそれが斬新で画期的だとは思えません。耳にするすべてを「認識」によって「ああ、それね」に変えてしまうからです。

その様子は、まるで「知っている状態から一歩も出ない!」と言い張って、ガチガチの防御の中に立てこもっているような感じではないでしょうか。

おそらく、年齢を重ねるごとに新しい文化やデバイスを避けるようになるのも、この感覚に関連していると私は予想します。最近は70年代の音楽ばかり聴くようになった自分自身を振り返っても、やはり気をつけておきたいと思いますw

そろそろ、私たちは「知らない」状態を恐がるのではなく「知ること」の素晴らしさに目を向けてもいいのではないでしょうか。

それは冒頭に書いた、ごくごく素直に、

「美味しそう! 食べてみたい!」

と感じられるすごい機会でもあります。

さらに「知ろう!」とすることで「認識」では絶対に得られない興味と好奇心も湧き上がります。どちらにも「知らない」恐さを帳消しにしたうえで、おつりがくるほどのパワーがあると私は感じています。

そもそも、この世界の天然のものは、

「同じことは二度と繰り返さない」

という法則に従って動いています。ここでは「頭の中のインデックス」はまるで役に立ちません。

そして、私たちも天然の存在にほかなりません。だとしたら、少なくとも人そのものや、人が織りなす出来事については、毎回「知ろうとする」ほうがいいのではないでしょうか。

その具体的な方法はとてもシンプルです。

「真に知りたいなら、判断や解釈や意見をせず、ありのままに対象を体験する」

これだけを心がけていれば、かならずうまくいきます。

先に書いたように「認識」には、ループするように「過去を繰り返す」という罠があります。何度もなんども同じような嫌な体験をしていると感じるとしたら、ここにハマっていると考えるのがいいでしょう。

ぜひ、見切ったりわかった気になったりせずに、目の前にいる人物や、あなたが遭遇する出来事を「知ろう」としてみてください。

これだけで、人間関係やコミュニケーションから仕事との距離感まで、目にする世界は大きく様変わりするはずです!

Photo by Satoshi Otsuka.


会話力とプレゼン力を上げる「グッドバイブス・コミュニケーショントレーニング」

10月1日金曜日と2日土曜日の2日間にわたって、次の2つのコミュニケーションを自由に楽に、そして緊張やプレッシャーもなく実践するためのトレーニングの場として「グッドバイブス・コミュニケーショントレーニング」(通称コミュトレ)をオンライン開催します。

・ 会話や会議など、リアルタイムで行う言葉のやり取り。
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仕事でもプライベートでも、この両方を避けて暮らすことはできません。それなのに、私たちの多くは「苦手だ」「できれば関わりたくない」「なるべく最小限にしたい」と感じています。

今回の記事に登場した「知る」も含めて、グッドバイブスのさまざまなメソッドは、このような状況から抜け出すのに役立ちます。

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