ありとあらゆる悩みや苦しみを、一瞬にして消し去ってくれる魔法の薬が発明されたとしたら、どれだけ高額でも、どんなに苦労してでも、手に入れたいと思わないでしょうか。
実は、私たちのすべてが、すでにそれをもっています。大人から子どもまで、誰でも簡単に発動できて、減ったりなくなったりすることもありません。
使い方はとても簡単です。困った、やっかいだ、恐い、消えてなくなればいいのにと感じる対象を、
「ただ愛せばいい」
だけです。
二か月ほど前、私が住むアパートで大規模な外壁工事が始まりました。建物全体を足場で囲んで、ひび割れたか所を丹念に調べながら、ドリルなどでひとつずつ修理していくというものです。
その騒音たるや、まさに「筆舌に尽くしがたい」と書きたくなるくらいすさまじいものでした。まるで、ベッドで寝ている私の耳元でコンクリートを砕かれているような轟音が鳴り響きます。
一日も早く終わってほしいと思っていたある日、エレベーターを降りた先の広場で、作業員の人たちがお弁当を食べているのを目撃しました。近づいてみると、なんと全員がアラブ系の外国人だったのです。
その顔を見たとたん、こんな言葉が頭に浮かんでいました。
「はるばる八王子までやってきて、うちの壁を直してくれてありがとう!」
うまくは表現できないのですが、私の中にはごくごく自然に、彼らとの仲間意識のようなものが生まれていたのだと思います。
それからというもの、ドリルの音は私を以前ほど苦しめなくなりました。もちろん、ボリュームや音質は相変わらずひどいものです。毎朝、きまって「ガガガガガ」の響きで目を覚まします。
けれどもその瞬間に、コントで相方からなんども同じボケをかまされているような、彼らと私で騒音ネタを演じているような、何ともいえない笑える感じに変わったのです。
以来、「おお、アイツら今日もがんばってるなぁ」などと思いながら、それほど苦労せずに二度寝できるようになりました。
たぶん、私は彼らを少し「愛せた」のだと思います。
となりの家から聞こえてくるピアノの音が、いつも回覧板を届けてくれる小学2年生の女の子が弾いているものだとわかれば、それほどうるさくは感じないでしょう。
でも、毎回のようにゴミの出し方に文句を言ってくるオバサンが奏者だとしたら、同じピアノが舌打ちしたくなるようなノイズに変わります。
要は、音そのものではなく、音につけてしまった「意味づけ」が私たちを困らせているということです。
「愛するという行為」
には、そのような嫌な意味を、きれいさっぱり取り除いてくれる力があるのです。
問題は、「口うるさいとなりのオバサンを、どうすれば愛せるか?」だけです。深く考える必要はまったくありません。ただ、こう自問してください。
「この人を愛せない理由は何か?」
すぐに、「イヤミを言われたから」「意地悪をされたから」「根性がひん曲がっているように思えるから」などの「愛したくない理由」が思い浮かぶはずです。
同時に、万が一にもそれらの悪事を帳消しにしてこの人を愛してしまったら、自分が被る損害は計りしれない、悔しさに耐えきれない、それでは正義が為されないなどの思いが頭をよぎることでしょう。
ここからは、とても単純な二者択一があるのみです。
冒頭に「ありとあらゆる悩みや苦しみを、一瞬にして消し去ってくれる魔法の薬が発明されたとしたら、どれだけ高額でも、どんなに苦労してでも、手に入れたいと思わないか?」と書きました。
「愛するという行為」には間違いなくその力があります。苦手な上司だろうと、いけ好かない同僚だろうと、相手を選ぶことなく抜群の効果を発揮してくれます。
それを手に入れるためのコストとやるべきことは、
「愛せない理由を乗り越える」
だけです。
これさえクリアすれば、となりのオバサンの弾くピアノの音に悩まされることはなくなります。うまくいけば、あれほど自分をイラつかせたゴミのダメ出しさえも、私の外壁工事と同じように、コントや漫才のネタのように見えてくるでしょう。
こちらを選ぶか、それとも彼女の顔を見るたび、下手なピアノの演奏を聴くたびに、心をかき乱されるほうを選ぶか、すべては自分で決められることなのです。
Photo by Satoshi Otsuka.
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