人は目に見える「身体」と、目には見えない「マインド」の2つの要素でできていると私は考えています。
私にとってのマインドとは、心、精神、魂、霊、ソウル、スピリットなどと呼ばれているものに近く、「私は倉園である!」という意識の源でもあります。
一方の身体は、マインドが閃いたアイデアや思いを、他の人にもわかる形にアウトプットするために必要な「道具」のようなものと捉えています。
あるいは、
「マインドは生命で、身体はその容れ物」
といってもいいでしょう。
このような前提で考えてみたいのですが、誰かを「愛している」というとき、私たちはその人のマインドと身体の、どちらを愛しているでしょうか。
たとえば、昨年の5月にこの世を去った母を、私はいまでも愛しています。けれども彼女の身体は、見たり触れたりできるような形で残ってはいません。もちろん、写真を見なければ愛する気持ちが湧いてこないなどということもありません。
だとすれば、少なくともいまの私は、母のマインドを愛しているということになります。
とても不思議なことに、生命のない「モノ」には、これと同じような感覚を抱くことはできません。
たとえば、私にとって愛すべきモノの代表にギターがあります。とくに、20代後半のころに使っていたリッケンバッカーにはただならぬ思い入れがあって、まるで我が子のように愛していました。
いま、その愛器は私の手元にはありません。30代前半でいったん音楽から足を洗ったときに売ってしまったからです。
見たり触れたりできないという意味では、母とまったく同じ存在ですが、私はあのギターをそのようには愛していません。理由はやはり、モノにはマインドがないからだと思います。
この数日の記事で、「愛することはけっして難しくない」という主旨の話を書いてきました。
それはほかでもない、
「相手が誰であろうと、マインドを愛することはたやすい」
という意味においてです。
愛する対象が「身体」になった瞬間、まるで別のことのように難度は急激に高くなります。
何よりもまず、「五感」の問題をクリアしなければなりません。視覚や聴覚、嗅覚、触覚、味覚から入ってくる情報は、私たちにかならず、
「好きか、嫌いか?」
を問いかけてくるからです。
当然ですが、私たちは「嫌い!」と思う相手を愛することはできません。
つまり、「身体」を基準に相手を愛すためには、ルックス、プロポーション、声のトーン、匂い、服や髪型のセンスに加え、どこまで近寄れるか、その人に触れられるかなど、ありとあらゆる五感の審査をクリアしてもらわなければならないのです。
また、マインドと身体の決定的な違いのひとつに、
「行動」
があります。
形がないマインドや生命は、誰かに危害を加えることはありません。これに対して、身体は意識しなくても何らかの「行動」を起こします。
あるときはそれが「辛辣な言葉」であったり、「迷惑なふるまい」「イラつく態度」「ひどく傷つけられる選択」であったりします。
こちらは私たちに、
「許せるか、許せないか?」
と問いかけてきます。
もちろん、私たちは「許せない!」と思う相手を愛することはできません。
この、「五感が好きと判断した人」かつ、「自分に許せない行動をしなかった人」というかなり厳しい条件によって、愛するためのハードルは、超えるのが不可能に思えるほど高くなっていくわけです。
結果として、愛する対象も、自然と子どもや家族、恋人、親友などの、
「特別な人」
に限定されることになるのです。
ここで想像してみてください。もし、このような「身体的な愛」を唯一の愛とみなしている人が、
「あなたは自分を愛しているか?」
と問われとしたら、どう感じるでしょうか。
何を置いてもまず、自分を鏡に映して顔がイケているか、体型に満足しているかなどの外見を確認しなくてはなりません。自分の声も気になるところでしょう。ほかにも、運動神経や頭のよさ、体臭、口臭、肌質、頭髪の量など見逃せないポイントは無数にあります。
しかもこのチェックは、一度や二度ではなく、定期的に行わなくてはなりません。身体に関わるすべてが、老化によって衰える可能性があるからです。
五感の審査の次に待っているのは、「これまでの自分の行動が許せるか」の厳しいジャッジです。しかも、今回の相手は「自分」です。他の人なら知るよしもない「本心」までもが、白日の下に晒されることになります。
「私はこれまで、胸を張って歩けるような生き方をしてきたのか?」
「親の介護をしながら、心の中で面倒だ、迷惑だなどと感じていなかったか?」
「若いころにもっと努力しておけば、いまよりもいい暮らしができたんじゃないか?」
「輝いて見えるまわりの人と比べて、私には本当に価値があるのだろうか?」
はたして、これだけの超絶に厳しい審査に合格できる人が、この世にいるでしょうか。
現実には、この2つの条件をクリアして「自分を愛せる」人などひとりもいないからこそ、私たちは日々、「特別な人」になろうと努力しているのだと思います。
では、けっして取り替えることのできない外見と、絶対に消すことのできない過去の行動を抱えながら、愛するに値する「特別な人」になる試みはうまくいくのでしょうか。
あえてその難題に挑むのもわるくありませんが、私たちのすぐとなりにもっと簡単な方法があります。目をつぶって、これまでの記憶をすべて手放して、身体ではない「マインド」を愛せばいいのです。
それは、容れ物ではなく、
「生命そのものを愛する」
ということでもあります。
自分と他の人の、どちらから始めてもかまいません。
「身体という見せかけを乗り超えて、その人の本質であるマインドを見る」
という、やるべきことはまったく同じだからです。
自分に対してそれができれば、他の人にもできるようになります。他の人をマインドとして見られるようになれば、身体への審判というイリュージョンを超えて自分を愛せるようになります。
それはいつでも同時に起こるし、けっしてひとりだけでは完結しません。この取り組みには、他の人の存在がなくてはならないということです。
そしてこれこそが、なぜかこの世界に「五感が嫌いと判断する人」や「許せない行動をする人」がいる、唯一の理由だと私は考えます。たぶん、いるのではなくて「いてくれる」のです。
Photo by Satoshi Otsuka.
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