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「愛する」ためにどれだけの努力が必要か?

私たちが「難しい!」「やりたくない!」と感じる行動の中には、その気になりさえすれば、いとも簡単にできてしまうものが数多く含まれています。

たとえば、寒い冬の夜、コタツでくつろいでいたら猛烈にトイレに行きたくなったとき、リビングから10歩足らずの距離をなかなか移動する気になれずに、限界まで我慢したことはないでしょうか。

あるいは、大きめのショッピングセンターで、大量の買い物を駐車場まで運んだあと、店の入り口までカートを戻すのが面倒で、なんとなく許されそうな空間に放置したことはないでしょうか。

実際には、トイレに行くも、カートを所定の場所に戻すも、「その気になれば簡単にできる」ことです。それをするのに苦労や努力はほとんど必要ありません。

一方で、それなりに大きなメリットや報酬が得られると確信している場合、私たちはかなり大変なことでも、苦労を惜しまずに軽々とやってのけます。

海外旅行や連休中のテーマパーク訪問などはその好例ではないでしょうか。

観光地にたどり着くためなら、重い荷物を引きずりながら電車や飛行機を乗り継いで、自宅から1万キロも離れた場所まで平気で移動できます。目的のアトラクションを楽しむために、炎天下のなか、文句も言わずに3時間でも4時間でも列に並べます。

こうしてみると、私たちがある行動に対して感じている「難しさ」や「やりたくなさ」は、かなり曖昧で、実はそれほど現実に即したものではないことがわかります。

そこで質問です。あなたにとって、

「愛するという行為」

は簡単でしょうか。それとも「難しい!」「やりたくない!」ものでしょうか。

あなたがどう感じたとしても、「愛するという行為」が「コタツから出てトイレに行く」の仲間であることは間違いありません。

「まさか、そんなはずはない!」と思ったとしたら、

「自分の子どもを愛するのに必要なコストや努力はどのくらいか?」

を算出してみてください。

ほとんどの人の答えは「ゼロ」であるはずです。ただ、息子や娘の前に立ってその様子を眺めるだけで、あなたは「愛するという行為」を自然と始めているのではないでしょうか。

私には子どもがいませんが、かわいい姪っ子にならコストゼロの愛を発揮できます。友人がひとり娘を見つめるその目の中に、同じ愛を感じとることもできます。

では対象を変えて、何十年も連れ添ったパートナーならどうでしょう。無二の親友ならどうでしょう。職場にいる同僚や、あまり馬が合わない上司ならどうでしょう。となりに住む口うるさいオバサンやオジサンならどうでしょう。

もし、家族や友人から範囲を広げていくに従って、「愛したくない度合い」が増したとしたら、私たちは人生のどこかのタイミングで、

「自分が愛するにふさわしいと判断した人しか愛すべきではない!」

と固く誓ってしまったのだと思います。

そしてこの、「愛するに値するかどうか?」の判断はけっして不動ではなく、さまざまな理由によってつねに変わり続けます。

「つき合っている最中は愛するけれど、別れたあとはそれに値しない」
「愛していたこともあったが、許せないことを数多くされたので、いまはそれに値しない」

つまり、相手の価値を値踏みしながら、本来ならコストゼロの行動を発揮するかしないか、そのつど意志決定しているということです。

これによって、私たちは次の2つの「恐れや不安」とともに暮らすことになります。

「相手の価値が、自分が愛するにふさわしいところから下落しないだろうか?」
「自分の価値が、相手から愛されるにふさわしいところから下落しないだろうか?」

ある日、突然、愛憎が入れ替わることへの懸念といってもいいでしょう。こうして、愛している、愛されているという状態は、私たちにとってかならずしも平安なものではなくなっていくわけです。

加えて、いったん「愛するに値する」と決めた人の価値が下落したように感じたとき、まるで大きな損害でも被ったかのように後悔します。「どうして私は、こんな人を愛してしまったんだろう……」というあの感覚です。

この諸々の捉え方、考え方こそが、愛することを難しくしている原因ではないでしょうか。

最近、アフターコロナの時代はあらゆることが一変するという話をよく耳にします。何がどう変わっていくかはよくわかりませんが、私はいまこそ、「愛するという行為」を見直すチャンスだと考えています。

ずいぶんと長いあいだ、私たちはそれを、聖人の域に達した人や、完璧に悟りきった人にしかできない、この世でもっとも困難な取り組みと考えてきました。

けれども、先の子どもの話を読めばわかるとおり、それを行うための鍛錬や修行などまったく必要ないことは明らかです。何のことはない、「愛するという行為」は、呼吸することや食べることと同じく、私たちが生まれながらに手にした能力のひとつだったのです。

だとしたらこの機会に、

「特別な条件を必要とする、限定された、恐れや不安を伴う愛」

というイリュージョンを手放し、

「私たちに自然と備わった、いつでも誰にでも、コストゼロで無条件に発揮できる愛」

を思い出してもいいのではないでしょうか。

それは、少しのあいだ身体が冷えることを我慢してコタツから出る努力や、カート置き場まで50メートルほど戻る努力よりも少ない「その気」さえあれば実現します。

しかも、愛することによって得られるメリットや報酬は、連休に行くレジャーとは比べものにもならないほど膨大という事実を、たぶん、私たちは知っているのです。

Photo by Satoshi Otsuka.