今回の新型コロナウイルスは、私たちに2つの不安をもたらしているように思います。ひとつはもちろん、感染による健康への被害です。
こちらは生命に関わる大きな問題ですが、すでに具体的な対策が見えているだけに、どう対処すればいいかについてそれほど悩む必要はなさそうです。
どちらかというと、いま私たちに多くの失望をもたらしているのは、もうひとつの、
「見慣れた日常が様変わりしたうえに、この先に何が起こるかもわからない」
という現実ではないでしょうか。
今日はついに緊急事態宣言が出されるとの報道もありました。まだまだ、この足下がおぼつかない宙に浮いたような日々は続くということです。
そこで今日は、望ましくない状況に置かれたうえに、先行きが不透明なこの現状を、それでも「平安な心」で乗り切る方法について書いてみようと思います。
まず、私たちはどんなときでも、
「期待」
をもちながら生きているという事実に注目してください。
「期待」の仲間に「夢や希望」があります。どちらも「未来に抱くもの」という意味で似ていますが、夢や希望は数年後、数十年後を見据えた長期的な願望であるとともに、「自分はどうなりたい?」と、かなり意識しなければイメージできないものであるはずです。
これに対して期待は、どんな小さなことでも、私たちが何かを行う際には例外なくもつ短期的な願望です。
たとえば、自宅から駅まで歩く数分の道のりであっても、私たちの心の中には「寒くなければいいのに」「花粉が少なければいいのに」など、何らかの「期待」が生まれています。
誰かに会えば「機嫌よく対応してほしい」と期待し、仕事を始めたら「滞りなく進んでほしい」と期待し、ランチに行けば「混んでいなければいいのに」と期待し、映画を観れば「主人公がしあわせになってほしい」と期待します。
眠っているあいだを除けば、私たちはほぼすべての時間を期待とともに過ごしているということです。
しかも、期待することがあまりにあたりまえすぎて、ここぞという場面でなければ、私たちは「いま自分が何を望んでいるか」をいちいち確認することはありません。意識的にイメージする夢や希望と比べると、期待はかなり無意識なのです。
ではここで、あなたが過去に「かなりがっかりした経験」をひとつ思い出してください。仕事でもプライベートでも何でもかまいません。何かに失望した瞬間の映像を記憶の中から引っ張り出したら、それを眺めながら次の問いに答えてみてください。
「あなたはなぜ、そのときがっかりしたのか?」
細かな表現は違っているかもしれませんが、おおよそ「望んだような結果にならなかったから」もしくは、「思ったとおりに事が運ばなかったから」ではないでしょうか。
この「望んだ」「思った」こそが、その出来事に遭遇する直前まであなたがもっていた「期待」です。
これによって、私たちが失望するときの仕組みがひとつ明らかになります。
「実際に起こったことが自分の期待と異なっていたとき、私たちは失望する」
こうして文章にすると、ごくごくあたりまえのことを言っているだけのように見えます。けれども、先に書いたように、私たちはいつでもほぼ無意識のうちに何かを期待しています。
このため、がっかりする出来事に遭遇したその瞬間、自分がたしかに期待をもっていたという事実をすっかり忘れて、
「自分とは無関係に、望ましくない出来事が目の前に現れた」
と大きな勘違いをしてしまうのです。
この話を整理するために、わかりやすい例を挙げてみましょう。たとえば、ある子どもが給食を目前にして「今日はプリンが出るといいな!」と微かな期待を抱いたとします。
お昼の時間がやってきて、もし、配膳されたお皿にプリンが乗っていなければ、「なんだ、プリンはないのか……」と失望するでしょう。
けれども、直前にプリンのことなどいっさい思いつかなかったとしたら、まったく同じ給食を目撃した子どもは、これっぽっちもがっかりなどしないはずです。
つまりは、どんなときでも失望の一端は、期待するという形で私たち自身が担っているということです。
だとすれば、
「どのような出来事であっても、それ自体には私たちを失望させる力はない」
ということにならないでしょうか。
期待とは「近未来についての願望」です。それは私たちの頭の中にしかないイリュージョンです。では、その期待に反して「実際に起こったこと」は現実でしょうか。
少なくとも期待をもったままの人にとって、それはけっして現実ではありません。なぜならば、
「これはどうにも期待はずれな出来事だ!」
という「意味づけ」をしながら「実際に起こったこと」を見ているからです。
プリンを期待した子どもにとって、プリンが不在のお皿は「うれしくない給食」「自分を不幸にした給食」「おぞましい給食」「憎むべき給食」にほかなりません。
けれども、給食には何の罪もありません。たまたまその日はプリンがなかったというだけの「いつもと変わらないただの給食」です。
この何の「意味づけ」もされていないフラットな給食が見えて初めて、私たちは「いま紛れもない現実を目撃している!」と言えるのです。
つまり、期待をもったまま目にしている「実際に起こったこと」もまた、ベタベタに「意味づけ」されたイリュージョンであるということです。
これでようやく解決の糸口にたどり着きました。まずは私たちが抱く失望の正体を整理しておきましょう。
「期待はイリュージョン。期待はずれと意味づけした出来事もまたイリュージョン。この2つのイリュージョンがもたらす葛藤によって、私たちは失望したりがっかりしたりする」
ぜひ、2つのイリュージョンの落差が、ここでの葛藤をより深刻なものにしている点に注目してください。
そもそも「近未来についての願望」である期待が高くなるのは必然です。これに対して、期待はずれと「意味づけ」された出来事は、フラットな現実よりもはるかに低く見積もられています。
ここに、私たちの苦悩を必要以上に大きくする、巧妙な仕掛けが施されているのです。
このメカニズムさえわかってしまえば、冒頭に書いた「望ましくない状況に置かれたうえに、先行きが不透明なこの現状」への対処法も見えてきます。
ヒントは先の「どのような出来事であっても、それ自体には私たちを失望させる力はない」にあります。要は、この先に何が起こったとしても、それに自分を苦しめるような力を、あなた自身が与えなければいいのです。
具体的には、まずここから始めます。
① どれだけ高い期待をもってもかまわない!
ここまでを読んで「つまり、期待をもたずに生きろってことなの?」と思ったかもしれません。四六時中、期待とともに暮らしてきた私たちに、そのような芸当ができるはずはありません。
失望することを恐れて、あえて期待を低くしておく必要もまったくありません。何かをやろうとするなら、いつでも自分が望む最高の結果をイメージしてください。
先の子どもなら、4時間めの授業中ずっと「プリン来い! プリン来い!」と強く念じていればいいということです。
② 実際に起こったことが自分の期待とどう違ったかを客観的に見極める。
結果はすぐに目の前に現れます。期待どおりだったか、一部は違っていたか、それともまったく異なっていたか、他人のテストを採点するように、少し引いた立ち位置で判定してください。
③ 少しでも期待と違っていたら、「ほお、そう来たか」と言って期待を手放す。
すでに書いたように、すべての期待はあなたの頭の中にだけ存在するイリュージョンです。それをもったまま目の前の出来事を見ようとすれば、「意味づけ」をしたくなり、現実もまたイリュージョンに変わってしまいます。
いうまでもなく、イリュージョンとイリュージョン、すなわち実在しないもの同士の葛藤を解消することなど不可能です。
だとすれば、結果が見えた時点で、最初のイリュージョンである「期待」をキッパリと手放せば事態は大きく好転します。
実現しなかった期待は、抽選が終わったあとの「はずれクジ」のようなものです。そんなものをいつまで握りしめていても、悔しさが湧き上がるだけで、1ミリのメリットもありません。
「はい、はい、はずれたのね」と、いっさいの思い入れとともに、できるだけ早くゴミ箱に捨ててしまうのが得策です。
期待と実際に起こったことの違いを「ほお、そう来たか」で受けることによって、「はずれクジ」を後生大事にしたい思いを和らげられるはずです。
④ 目の前の出来事を凝視して、「いま自分は何をすればいいか?」を現実から教えてもらう。
期待を手放したあなたは、もう実際に起こったことに「期待はずれ」の「意味づけ」をする必要がなくなります。そのままの状態で、「これはいったい何なんだ?」と、絶大な興味をもって目の前の出来事を凝視してください。
起こっていることの全貌はすぐにはわからないかもしれません。けれども、あきらめずに見続ければ、ひとつ以上の「いまできること」が思い浮かぶはずです。
このとき、できるだけ能動的に考えることをやめてください。「なんとかしなければ!」「どうにかしなければ!」と焦る気持ちをグッと抑えて、フラットな現実に答えを教えてもらうような感覚で、何かを感じるまで気長に待つのです。
「これかな?」というアクションが閃いたら最後の仕上げです。
⑤ もう一度、MAXの期待をもち直して、そのアクションを実行する!
やや古いかもしれませんが、私ならここで「ロッキーのテーマ」か「猪木ボンバイエ」を鳴らすでしょうか。そう、復活と新たなチャレンジを彩るテーマソングです(笑)。
①から⑤までのプロセスを私は「不断の再生」と捉えています。
期待を手放すとは、けっして「簡単にあきらめてしまう」ということではありません。それは、がっかりや失望によって、無駄なエネルギーを消耗しないための工夫にすぎません。
ある出来事がその後の人生にどのような影響を与えるか、私たちは本当のことを何も知りません。そこで、「悲惨だ」「もうダメだ」「取り返しがつかない」などと勝手な判断をしないための選択でもあります。
そして幸いなことに、何度でもやり直せる「いまここ」は、生きている限り私たちの前にあり続けます。
だとすれば、
「MAXの期待」→「アクション」→「ほお、そう来たか」→「期待を手放して現実に聞く」→「もう一度、MAXの期待」そして「復活のアクション!」
を繰り返していさえすれば、失望も絶望もすることなく、この足下がおぼつかない宙に浮いたような日々を乗り切れると私は考えます。
Photo by Satoshi Otsuka.
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