11月15日の記事から三話連続になりますが、今日も「もしかしたら、自分はこの世界の姿を見誤っているんじゃないか?」と、私たちのイリュージョンを疑う旅に出ようと思います。
前話で書いたように、それは次のような考察から始まります。
「私たちはそれぞれが創造したイリュージョンを見ている」
↓
「けっして、いつでもありのままの現実を見ているわけではない」
↓
「だとしたら、本当のことを何も知らないのではないか?」
そして、「本当のことを何も知らない」という事実を受け入れ、自分の「正しさ」を手放したとき、私たちを取り巻くこの世界は、以前とはまったく異なる姿を見せ始めます。
今日は、このような新たな見方を「グッドバイブスの視点」、従来の見方を「イリュージョンの視点」と名づけ、それぞれの世界で何が変わるのかをまとめてみましょう。
まずは自分自身についての認識です。「自分とは何か?」の答えといってもいいでしょう。
イリュージョンの視点:「身体」が自分である(自分はモノである)
グッドバイブスの視点:「意識」が自分である(自分はモノではない)
詳しくはバックナンバー「意識を使ってアイデアを閃くワークとは」などで書きましたが、私はこの件の真偽を探るための取材として、出産経験のある女性に出会うたびに、
「あなたのお子さんがお腹の中にいたとき、意識はあったと思いますか?」
と質問するようにしています。
なんと、20人以上から得た回答のすべてが「あったと思います」でした。しかも、それなりに成長した出産間近の時期ではなく、「豆粒くらいのときから、たしかに意識があったように感じる」と言う人も少なくないのです。
もちろん、私たちが信じてきたのは、目で見て、手で触ることができる「身体」のほうです。でもその常識を、「いや、もし本当のことを知らないとしたら……」と疑ってみると、
「身体をもたない状態でも意識があった」
という、多くの女性の証言も簡単には否定できないことがわかります。
どこまでいっても真偽のほどは五分五分ですが、この「身体か、それとも意識か?」という自分についての認識は、次のような展開に私たちを導いていきます。
イリュージョンの視点:自分はモノなので傷ついたり損なわれたりする
グッドバイブスの視点:自分はモノではないので、傷ついたり損なわれたりしない
「身体」はモノなので、当然、傷ついたり損なわれたりします。しかも、最後にはかならず消滅するという、かなり恐ろしい性質をもっています。
当然、そのような自分として生きていくためには、
「外部からもたらされる危険への防御」
を怠ることはできません。
そのための有効な手段として私たちは、「望ましくない未来の予想」や「出来事への望ましくない意味づけ」を行います。対象が何であれ、すべてに「危ないぞ!」「恐いぞ!」とラベルを貼っておけば、危機に備えられるという理由からです。
ほかでもない、この妄想が私たちに怒りや憤りなどの負の感情を抱かせ、悩みや苦しみの根源となることは、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログで繰り返し書いてきた通りです。
さらに、実際に他人から何らかの攻撃を受けたと感じたとき、私たちは、
「攻撃は最大の防御なり」
の教えに従って、攻撃で返すことを、自分の身を守るための最良の手段と考えています。
これが、怒りに対しては同じ怒りで、悪意ある行動に対しては、やはり同じ悪意ある行動で応戦しようとする、まさに私たちの日常です。
必然的に、このような世界には数多くの「敵」が存在することになります。そして自分と敵とは利害が対立し、完全に分離します。
その結果、ここにも新たな展開が生まれます。
イリュージョンの視点:自他が完全に分離する「バラバラ意識」の世界
グッドバイブスの視点:自他の区別のない「ひとつ意識」の世界
モノではなく、傷ついたり損なわれたりもしない「意識」が自分である世界には、防御という概念すら必要ありません。その手段としての攻撃もしかりです。ここでは、いつでも自他の利害は一致し、分離や分断も起こりえません。
つまり、「バラバラ意識」と「ひとつ意識」も、自分自身を「身体」と「意識」のどちらと認識するかで決まるということです。
さらに、この認識の違いからは、もうひとつ別の展開も考えられます。
イリュージョンの視点:モノである自分は、無価値な存在として生まれた
グッドバイブスの視点:モノでない自分は、価値マックスの存在として生まれた
こちらについては、バックナンバー「自分と他人とこの世界を信頼するための根拠」に詳しく書いてあります。ぜひ再読してみてください。
モノである「身体」を自分と捉えたとき、私たちはこの世界に何も貢献できない、生産性ゼロの状態で生まれてくることになります。それではまずいということで、知識やスキルや経験などを必死に身につけていくわけです。
ところがこの、「努力次第で自分の価値が決まる」と考える右肩上がりの成長志向には、
「どこまでいっても、自分の価値は他人との比較で決まる」
という、絶対に逃れることのできない宿命がつきまといます。
これが、一部の成功者をのぞいた多くの人が、
「自分に自信がもてない」
「どうしても、自分に価値があると認められない」
と感じる最大の要因となっているのです。
これに対して、「意識」を自分と捉えたときの価値は、生まれた瞬間からマックスです。そもそもモノではないので、その価値は不変であり、進化したり成長したりすることはないからです。
それは同時に、
「この世界のすべての人の価値は完全に等しい」
という事実も私たちに教えてくれます。
すでに書いてきたように、「本当のことを何も知らない」という事実を認め、「正しさ」を手放せたとしたら、私たちの前には「イリュージョンの視点」だけでなく、これまで挙げてきた「グッドバイブスの視点」も現れるようになります。
そして、双方の信憑性は少なくとも五分五分で、どちらが真実かを完璧に証明することは永遠に不可能であるはずです。あとは、それぞれの感性に従って、生きてみたい世界を選択するだけです。
おそらく、最初のポイントは、
「どちらが自分にしあわせをもたらしてくれそうか?」
を直感に従って「感じる」ことだと思います。
次に、たとえば「グッドバイブスの視点でいってみるか」と思ったなら、それをリアルに実践する中で、
「本当に、それが自分にしあわせをもたらしているか?」
を真摯に吟味してみれば、自分が行った選択の可否は明らかになります。
両者のどちらが真実かを見極める唯一の方法は、これしかないと私は考えます。
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