前話で私は、
「私たちが見ているのは、自分自身で創り出したイリュージョンである」
と書きました。
76億の人々が、それぞれに趣の異なる映像を自分で投影しながら、76億通りの世界を見ながら暮らしているということです。
もしそうだとしたら、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』で提示した、
「もしかしたら、自分はこの世界の姿を見誤っているんじゃないか?」
という疑いは、かなり信憑性を帯びてくることになります。
そして、すべての人が「現実」をありのままに見ていないとするならば、
「私たちは本当のことを何も知らない!」
という可能性も限りなく高くなるのです。
11月15日にこのブログの一周年を迎えたこともあり、私はいま、もう一度、グッドバイブスの原点に立ち戻ろうとしています。それが次の図式です。
「私たちはそれぞれが創造したイリュージョンを見ている」
↓
「けっして、いつでもありのままの現実を見ているわけではない」
↓
「だとしたら、本当のことを何も知らないのではないか?」
自分の身のまわりで起こることについて、「ほとんどのことは知っている」思って生活していたにも関わらず、いきなり「いや、それは幻だよ。実際には何もわかってないんだよ」といわれれば、誰もが不安に思うことでしょう。
たしかに、私たちがいま、24時間365日を心からしあわせに暮らせているとすれば、それが崩壊することにもなりかねないような、まるで受け入れ難い話に聞こえるはずです。
でも反対に、なぜか対人関係もうまくいかず、仕事にやりがいも感じられず、家庭で気を病むことも多く、いつも人生から悩みが消えない状態にいるとしたらどうでしょう。
残念ながら、他人の心を変えることはできません。自分の感情をコントロールしようとしても、些細な事柄ならまだしも、強い怒りや憤りを覚えるような出来事にはまるで歯が立ちません。
「もう、自分ではこのどん詰まりの状況をどうにもできない」とあきらめている人がいても不思議ではないのです。
そんななか、私たちの残された唯一の救いが、
「自分は本当のことを何も知らない!」
という事実だと私は考えます。
文字を読むだけでは、「たしかにそうかもね」くらいの感覚で終わってしまうかもしれません。けれども実際には、この小さな宣言には人生を大転換するほどのパワーがあります。
なぜならば、「何も知らない」を認めることによって初めて、私たちは長年のあいだコツコツと積み上げてきた各人のイリュージョンから抜け出し、「ありのままの現実」を目の当たりにする可能性を得られるからです。
そして多くの場合、「未来の予測」や「意味づけ」などによって私たちが頭のなかで創り出すイリュージョンよりも、現実のほうがはるかに静かで穏やかです。
手の届かない彼方ではなく、あなたの目の前にいつでも存在している「平安な現実」に移行するための入り口が、「何も知らない」を受け入れることなのです。
問題は「どうすればそれを自分の人生にリアルに反映できるか?」に尽きます。もちろん、ただ頭でそのように理解しているだけではほとんど意味がありません。それほど大きな変化も起きないでしょう。
重要なのは、
「何も知らない自分としてどう行動するか?」
をいつも忘れずに気にかけておくことです。
より具体的には、あなたの頭に思い浮かんだすべての事柄について、次のように自問する習慣を身につけてください。
「それは本当に正しいのか?」
これまでなら、条件反射のように抱いていた、怒りや憤りなどの負の感情も含めてすべてを疑います。けっして感情そのものを否定したり、コントロールしたりする必要はありません。
そうではなく、いったん自分が下した判断に対して、「何も知らない自分が行ったのだから、これは正しくないかもしれない」という可能性を消し去らないように、
「一瞬の間を置く」
ようにするということです。
たとえばそれが、「明日は大好きな釣りに行こう!」「このプロジェクトを実現してみたい!」などの、ワクワクするような未来を思い描くときや、「ああ、なんて美しい景色なんだろう!」といった感動の場面なら、あえて自分の正しさを疑う必要はありません。
実際には、そんな心躍る瞬間を体験しながら、あなたはこの話を思い出さないでしょう。そのまま楽しさや充実感を味わえばいいだけです。
反対に、心がザワついたり、身体に異変が起こるほどショッキングな出来事に直面したときには、かならず「それは本当に正しいのか?」と、自分の下した判断を疑うための「間」を空けるようにします。
できれば、少し落ち着いたところで次の文言を思い出してください。
「私はいつでもしあわせでいることを望んでいた。それなのに、この嫌な感じは何だ? 自分を苦しめる感情をいま自分自身で創り出しているなんておかしい! これはきっと、私がどこかで正しくない判断を下したに違いない!」
ここに書かれている全文を心から受け入れなければ、自分の正しさ、すなわち「知っているという前提のもとに行ってしまった判断」を手放すことはできません。
とくに、そのジャッジの根底に、正義感やモラル、哲学、常識、自分が教わってきた生き様などが関わっている場合は、「いやそれでも自分は正しいはずだ!」という強い葛藤が湧き起こるはずです。
多くの人がここで「自分は本当のことを何も知らない!」を認めることをやめ、「すべて知っている」というそれぞれのイリュージョンのなかに戻る選択をしようとします。たとえ、その代償として負の感情を抱くとしてもです。
ここからどうするかは完全にあなたの自由です。ただ、最後にもう一度だけ、なぜ、そもそも「ありのままの現実」を見る習慣をつけようとしたのかを思い出してください。
「あのどん詰まりの不幸な状況を一変させたかったから」
私にとって、いつでもこれが最後の砦です。
「どうしてそんなことができるのか?」と聞かれることもありますが、けっして驚くような話ではありません。ただ、救いのないイリュージョンのなかにはいたくないという一心で踏みとどまっているだけのことです。
そして何よりも、ほんの欠片であっても、妄想よりも静かで穏やかな現実を目撃できたとき、必要であれば、いつでもそれを修正したいと思える希望とエネルギーが自分の中に残されている事実に、私は大きな信頼を寄せているのです。
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