私たちはイリュージョンの世界に住んでいる

今日はこのブログにとって特別な日です。第一話「創造を意識して今日の仕事をやってみる」を公開したのが2018年の11月15日。そう、一周年記念なのです!

この一年間、休むことなく平日の日刊を続けてきましたが、こともあろうに、一周年を目前にした昨日、ひさびさに高熱を出して寝込んでしまいました。

このブログでも「未来は予想できない」と書いてきたとおり、あと一話というタイミングでこういうことが起こるんだとあらためて実感しています。

ただ、朝6時の更新は叶わなかったものの、まだ11月15日は終わっていません(笑)。夕方まで寝てだいぶ復活してきたので、「無休で更新」を続けてみようと思います。

今日のテーマは「イリュージョン」です。こんな話から始めましょう。

ジャニーズの嵐が新国立競技場で初のライブを行うそうです。以前から嵐の大ファンで、ほぼすべてのライブに足を運んでいたAさんも、さっそくチケットを入手しました。

ライブ当日、Aさんの目に映る新国立競技場がどんな感じかをイメージしてみてください。私が予想するに、それは「パラダイス」や「夢の空間」といった、この世のものとは思えないほどハッピーな場所に見えているのではないでしょうか。

では、この同じライブに、たまたま関係者枠か何かで招待された、それほど嵐に思い入れのないBさんがいたとしたらどうでしょう。Bさんの目には、この日の新国立競技場がどう映っているでしょうか。

「おお、たしかにキレイな会場だなぁ」「ここでオリンピックやるのかぁ」などの感慨はあると思います。けれども、Aさんが目にしたような感動の光景まではいかないはずです。

今回はわかりやすいように、「嵐のライブ」という要素を加えてみましたが、もし1億2千万人の日本人すべてが、何のイベントも行われていない状態の新国立競技場を訪れたとしたら、その感想はやはり1億2千万とおりにわかれると思います。

この、

「同じ場所なのに、人によってまるで違った様子に見える」

という不思議な事実に出会うたびに、私はいつも、

「いったい、本当の新国立競技場はどんな姿をしているのだろう?」

という疑問をもたずにはいられないのです。

そして、この話を突き詰めていくと、次のような事実に行き着くことになります。

「私たちが見ているのは、自分自身で創り出したイリュージョンである」

私たちは「イリュージョンの世界に生きている」といってもいいでしょう。

もちろん、新国立競技場という現実はたしかにそこにあります。その建物までを私たちが創造しているわけではありません。私たちが住むこの地球も、そこに暮らす76億の人々も、現実として存在しています。

けれども、それらをどう判断し、どう感じ、自分との関係をどのように定義しているかによって、対象の見え方は大きく変わってきます。そこには間違いなく、私たちの意志が関わっているのです。

私はこの件について説明するとき、「眉間のあたりにプロジェクションマッピングの照射装置がついている状態をイメージしてほしい」と言います。

事実として、新国立競技場はたしかに存在します。それをありのままに見ることができれば、先の私の疑問「いったい、本当の新国立競技場はどんな姿をしているのだろう?」は解けるはずです。

でも残念ながら、私たちはそのようなフラットな目で何かを捉えてはいません。

「自分自身の判断や解釈を、プロジェクションマッピングのように投影した対象」

を見ようとするのです。

もちろん、このことの是非を議論することにはあまり意味がありません。好むと好まざるとに関わらず、そういう風にしかこの世界を見られないのが私たち人間の宿命だからです。

ただ、「自分が見ているのは、自分自身で創り出したイリュージョンである」という事実を認識することで、私たちの人生に、これまで存在しなかった新たな可能性がもたらされることになります。

先のAさんが、無事に嵐のチケットをゲットして、「パラダイス」や「夢の空間」を体験できているなら、そのまましあわせなイリュージョンに身を任せておけばいいだけです。

では、同じAさんが、何かのトラブルで大切なライブのチケットを入手できなかったとしたらどうでしょう。間違いなく「失意のどん底」「圧倒的に不運な私」という映像を自分の人生に投影したくなるはずです。

ここで、そのまま「不幸なイリュージョン」を見続けることもできますが、

「あ、その映像は自分で創り出しているんだった!」

という事実を思い出せば、「プロジェクションマッピングのスイッチを自らの意志で切る!」という選択肢が、Aさんの人生に生まれるのです。

すでに書いたように、同じ対象であっても、私たちは76億とおりのイリュージョンに変換した映像を見ています。だとすれば、それぞれが各自の判断や解釈を投影せずにいれば、

「この世にひとつしかない、ありのままの現実」

が姿を現すことにならないでしょうか。

どんなときでも「ありのままの現実」には、私たちが思うような意味はいっさいついていません。ただ、出来事や人やモノがフラットに存在しているだけです。

「チケットを入手できなかった」というAさんの件も、「ありのままの現実」と見れば、何の意味もないただの出来事です。そう捉えるのが難しいことはわかりますが、「不幸なイリュージョン」を創り出して、そこに居続ける以外の選択はたしかにあるのです。

これが拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』で書いた「意味づけを手放して、ありのままの現実を見に行く」ことの本質です。

そしてもうひとつ、私たちが「イリュージョンの世界に生きている」とするなら、実は自分の人生をそれほど深刻に捉える必要もなくなると私は考えます。それは、「どうせ幻なんだから、人生なんて意味はない」と開き直ることではありません。

そうではなく、

「この絶望的な状況も、困難な問題も、自分が創った妄想なのかもしれない」

と、イリュージョンである可能性を念頭に置いておくことで、私たちはずいぶんと楽になれるということです。