前々話で「外にあるしあわせの条件」が幻想であると書きました。前話では、それをひっくり返すと見えてくる「内側にあるしあわせの条件」について書きました。
今日は前話で伝えきれなかったいくつかの事柄をひっくり返しながら、先週から続く「しあわせの条件」三部作を締めくくってみようと思います。
そもそも、「何をすることがしあわせか?」は各人が決めることです。少なくとも私ごときが定義できるような代物ではありません。
ただし、「どこにしあわせがあるか?」を見誤ってしまうと、永遠に答えが見つからないエンドレスの旅に出ることになります。実際に、私たちはそのような徒労を繰り返すことが多いのです。
私もけっしてその例外ではなく、かなり長いあいだ「自分の外にあるしあわせ」を追い求めてきました。もちろん、そこで得られたのは前々話で書いた「ワンナイトドリーム」のようなものばかりです。
幻想の「外にあるしあわせ」と、現実の「内側にあるしあわせ」、両者の最大の違いは、
「それを行ったときに、どのような心がもたらされるか?」
にあります。
前々話で「所有」には、何かを得た喜びとセットで「それを失ってしまわないか」という「恐れや不安」がついてくると書きました。
「刺激」も同様です。気持ちが高揚するような非日常的な体験をしたあとには、決まって「ああ、今度はいつこの刺激が得られるのだろうか?」という「恐れや不安」が頭をよぎります。
必死に努力してしあわせになれる何かを得たはずのに、なぜか心中はあまり穏やかではない。これが「外にあるしあわせ」によってもたらされる心の状態なのです。
前話で書いたように幻想とは「鏡に映した現実」のようなものです。「恐れや不安」をひっくり返せば、おのずと「内側にあるしあわせ」がもたらす心がどのようなものかが見えてきます。
それは、このブログで何度も書いてきた、
「平安な心」
にほかなりません。
これさえわかってしまえば両者の差はもう歴然です。かならず「恐れや不安」を抱くことになる「外にある条件」がしあわせをもたらすはずがありません。
残る問題は、どうすれば「内側にあるしあわせの条件」を手にすることができるかだけです。答えのひとつは前話で書きました。
「未来の報酬のために現在を手段にせず、いまここでしあわせを創造し続ける」
ことです。
それは、ごく平凡な「日常」の中で行われることでもあります。
もうひとつの答えは、前々話で書いた「何かを手に入れることで感じるしあわせ」の正体である、「他者と利害が対立するしあわせ」をひっくり返すと浮かび上がってきます。
「他者と利害が一致するしあわせ」
拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』でいうところの「ひとつ意識」にあたるものです。
地位や名声を得ることも有名になることも、けっしてひとりでは達成できません。地位の低い人、名声のない人、無名な人の存在があって初めて、あなたはそれを手に入れられます。
「それを得ていない人たちを背景にすることによって自分が際立てる」
と言ってもいいでしょう。
これを意図的にやろうとするとどうなるかをイメージしてみてください。かなり極端な表現ですが、他の人が地位や名声を得る機会、有名になる機会を、
「奪うことによって達成する」
と言えないでしょうか。
この、私たちが考える「所有」は、多少の差はあっても「奪う」という概念とセットになっているという事実に注目してください。
バーゲンセールで残りわずかとなった目玉商品を得るためにはどうするか。電車で最後の空席を得るためにはどうするか。企業がシェアを拡大するためにはどうするか。ひとり勝ちするためにはどうするか。
すべての方法は同じになるはずです。これが「他者と利害が対立するしあわせ」の本質であり、得たにも関わらずなぜか「恐れや不安」がもたらされる理由です。奪えば、いつか奪い返されることを恐れずにはいられなくなるのは必然なのです。
では、「他者と利害が一致するしあわせ」とは何でしょう。「奪う」を反転させれば何をすればいいかがわかります。そう、
「与える」
ことです。
これを先の答えと合体させると「内側にあるしあわせの条件」が完成します。
「いまここで与え続けること」
「刺激」や「所有」と真逆の行動が現れます。自分の外側にある何にも依存しない、まさに「内側の条件」です。
「与える」ための具体的な方法は、このブログにいくつも書いています。
「与えた瞬間に与えられるを実感する行動」
「相対的な見方では与えるや愛は偽善に思える」
ぜひ、このあたりを再読してみてください。
もちろん、与えたらなくなってしまうお金やモノはそう簡単には与えられません。けれどもあなたの中には、どれだけ与えてもけっして失われることのない何かが無数にあることも事実です。
その意味で、
「私はいま、与えられる何かをすべて手にしている」
と捉えておくことが最大のポイントです。
たとえば、「あなたの態度が気に入らない」と書かれたメールを受け取ったとします。「こっちこそ、こんなメールを受け取ってムカつくよ!」と返すこともできます。けれども、「ここで自分は相手に何を与えられるか?」を考えることも不可能ではありません。
「この人は私に何をしてほしいんだろう?」「この人は何が恐いんだろう。どうすればそれを取り除けるんだろう?」と考えるだけで、あなたが相手に与えられるものが見えてくるはずです。
そして間違いなく、あなたはそのすべてをすでにもっています。
「それではこちらが損をする」「それでは自分だけが犠牲になる」と思ったとしたら、あなたは「与えられる何かをすべて手にしている」という自分の最大の価値を否定したことになります。それはすなわち、相手の何かを「奪う」選択をしたことにほかなりません。
「与える」のか、それとも「奪う」のか。この一線を飛び超える勇気をもつことが、どんなときでも「内側にあるしあわせの条件」だと捉えてください。
それを実行できたとき、私たちは「愛そのものである存在」「与える存在」という本来の自分の姿を取り戻しています。同時に「生まれながらにしあわせな存在」であったことも思い出します。
こうしてあなたは、いつでも「平安な心」「グッドバイブス」でいられるようになる。これが今回の三部作の結論です。
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