先週末に投稿した前話では、「外にあるしあわせの条件とは何か?」について書きました。私はけっして「刺激」や「所有」を求めることが無意味だなどと思っているわけではありません。
それはときに、私たちに生きる活力や勇気を与えてくれる貴重な体験でもあり、人生のご褒美のような役割を果たすこともあります。
ただ、前話で書いたように「刺激」や「所有」には「得るための終わりのない旅が続く」や「他者と利害が対立する」など、さまざまな問題が含まれています。
そのため、「これが本当にしわせの条件か?」と問われれば、やはり私は「幻想だ」と言わざるを得ないのです。
私たちが抱く幻想はどれも「鏡に映した現実」のようなものです。多くの場合、それを反転させると本当の映像が姿を現します。
そこで今日は、「外にあるしあわせの条件」をひっくり返しながら、私たちの「内にあるしあわせの条件とは何か?」を解き明かしてみようと思います。
まずは「刺激」からいきましょう。「刺激」とは「非日常的な体験」です。これをひっくり返すと「日常的な体験」になります。
いかがでしょう。一般的に平凡と捉えられている「日常」という言葉から、しあわせの条件をイメージできるでしょうか。
ぜひ、バックナンバー「何もせずに続くしあわせな状態などない」を読み返してみてください。そこで私は次のような例を挙げました。
・ ブランドイメージの高い一流企業に就職できたとしても、そこでの仕事がつらいと感じていれば、けっしてしあわせではない。
・ 大恋愛の末に結ばれた2人であっても、お互いが相手のことを軽んじるようになれば、次第にその関係は冷え切っていく。
つまり、「しあわせは、状態と呼べるような線の形をしてはいない」のだから、
「いまここでしあわせを創造し続ける」
ことによってのみ、私たちはしあわせでいられるということです。そして、私たちにとっての「いまここ」は「日常」をおいてほかにはありません。
たとえば、前話で「刺激」の例として挙げた項目に「何かの大会で優勝する」がありました。もちろん、「刺激」にあたる「非日常」は優勝した瞬間、賞賛や拍手喝采を浴びる瞬間です。
では、これがスポーツの大会だとすれば、その選手にとっての「日常」とは何でしょうか。
「優勝を目指して練習やトレーニングを続ける日々と、すべての試合の真っ最中」
にほかなりません。
冒頭で書いたように、優勝という「刺激」を求めることには何の問題もありません。ただし、「優勝しなければしあわせでない」と考えた瞬間に、その人の「日常」はすべて「手段」と化してしまいます。
よく、その道の達人たちが「今日は試合を楽しみます!」と語るのを耳にします。その真意は、けっしてヘラヘラと遊び半分にやるということではありません。試合という「いまここ」でしあわせを創造し続けるという、極めて真剣な決意を表明しているのです。
勝つことには大きな意義があると私も思います。けれども、負けてなお「最高の試合だった!」と互いに健闘をたたえ合えたとしたら、その人は間違いなく、賞賛うんぬんではない「自分の内にあるしあわせ」を「いまここ」で感じているのではないでしょうか。
同じことは「所有」にもあてはまります。対象の如何に関わらず「何かを手に入れることで感じるしあわせ」には次の2つの時間軸が不可欠です。
① 何かがほしいと思いつく現在と、手に入れるために努力する現在
② 何かを手に入れるであろう未来
このうち、私たちがしあわせを感じるのは②の未来です。
「報酬はいつでも未来にある」と言ってもいいでしょう。では①の現在にはどんな意味があるのでしょうか。
「刺激」の場合と同様に、ここでの現在は未来の報酬を得るための「手段」にすぎません。そして、拙著にも書いたように、いったん「手段」とみなしたものから、私たちが楽しさやしあわせを感じることはまずありません。
十中八九、それは苦行、苦役、しかなたく我慢してやるものとみなされます。仕事を「お金を稼ぐための手段」と捉えた瞬間に、辛い作業と感じるようになるのとまったく同じメカニズムなのです。
「それでも未来に夢があるならいいじゃない」と思う人も少なくないでしょう。なぜならば、私たちは幼少のころから、
「あえて自分に重度のストレスをかけ、そこからの解放に快感を覚える」
という、かなり偏った「しあわせになる方法」を教えられてきたからです。
それは「日常にしあわせはない。だから日々、自分自身を圧迫しておけば、解き放たれたときに感じる喜びは大きいぞ!」といった、相対的で、見方によってはかなり自虐的なやり方に思えないでしょうか。まさに「サウナ風呂方式」です。
この幻想、すなわち、
「未来の報酬のために現在を手段にする」
から現実を浮かび上がらせてみましょう。未来に報酬があることは問題ではありません。現在の部分をひっくり返します。
「未来の報酬のために、いま行うすべてのことが目的である」
ぜひ、先の偏った「しあわせになる方法」を手放して、次のように考えてみてください。
「本来、私たちは24時間、365日しあわせでいられる存在である。未来に得たい何かがあったとしても、そのプロセスを不幸にする必要はどこにもない。むしろ、それがしあわせであったほうが、得たいものを手に入れられる可能性は高くなる」
おかしな英語かもしれませんが、何はともあれあなたは、
「Natural born happy being」(生まれながらにしあわせな存在)
であると確信してください。
これが、どんなときでも「内にあるしあわせの条件」を見つけるための起点になるのです。
さて、前話にはもうひとつひっくり返さなければならない幻想がありました。「他者と利害が対立するしあわせ」です。この答えを、今話でお伝えした「いまここでしあわせを創造し続ける」と併せれば、私が考える「内にあるしあわせの条件」はほぼ完成します。
こちらは明日の記事で詳しく書きます。それまでのあいだ、ぜひ「他者と利害が対立する」を反転させると、どんなしあわせの条件が姿を現すかをイメージしてみてください。
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