「刺激」と「得ること」がもたらすしあわせ

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』は次のようなメッセージで始まります。

「自分の外に置いてしまったしあわせの条件を、もう一度、自分の手に取り戻す」

今日は、この話に出てくる「外にあるしあわせの条件とは何か?」について書いてみようと思います。

「外にあるしあわせの条件」をどう表現するかは人によってさまざまですが、おおよそ次の2つの分類にあてはまると私は考えます。

「刺激と所有」

です。

「刺激」とは、ひと言でいえば「非日常的な体験」です。「何かの大会で優勝する」「何かの賞を受賞する」「高い評価を得る」「特別なイベントを開催する」「ふだんは行かない場所を訪れる」など、日々の生活では味わえないスペシャルな時間を過ごすことを指します。

身近なところでは、志望校に合格する、結婚式を挙げる、会社で表彰される、自分のためのパーティーが開催されるなどがこれにあたります。

私も過去にいま挙げたような「刺激」を味わったことがあります。それはまるで天に昇るような充実感と高揚感と満足感を伴う極めて甘美な経験でした。たしかに、その時間の中にいるときは「ああ、しあわせだ!」と感じたものです。

ただ、この「刺激がもたらすしあわせ」には2つの欠点があります。

ひとつは、

「人の身体はどんな刺激にもいつかかならず慣れてしまう」

というものです。

どれだけ過激なジェットコースターでも、二度、三度と乗るうちにスリルが薄れていくように、「非日常的な体験」が私たちにもたらすしあわせ感も回を重ねるごとに弱まっていきます。これが「刺激」の宿命と言ってもいいでしょう。

そのため、私たちは「もっとしあわせになりたい!」という願望のもと、さらに強烈な刺激を求め続けることになります。もちろん、その旅はエンドレスです。

2つめの欠点は、「刺激がもたらすしあわせ」はどれも例外なく、

「一夜のお祭りのように、あっという間に消え去ってしまう」

ことにあります。

あなたの何かを祝うパーティーが盛大に開催されている様子をイメージしてみてください。訪れる来賓は真っ先にあなたの元に駆け寄り、「本当におめでとう!」「いや、素晴らしいよ!」「自分にはとても真似のできないことだよ!」と最大の賛辞を贈ってくれます。

クライマックスはやはり、あなた自身によるスピーチの場面でしょう。会場にいる全員の視線がスポットライトを浴びたあなただけに注がれます。それはもちろん、羨望と敬意のまなざしです。

最後の挨拶を終えたあとに贈られる拍手喝采。あなたはまさに至福の真っ只中にいると感じます。

やがてパーティーも終わりの時間が近づき、来賓たちはひとり、ふたりと帰路に就き始めます。気がつけば、残っているのは自分と数人のスタッフだけです。

「あれ? もう終わりなの? もう誰も自分を称えてはくれないの?」と、やや拍子抜けしながらあなたも帰宅します。パーティーの余韻をかみしめながら眠って目覚めた翌朝、あなたが目にする景色はそれまでと何も変わらない、いつもの日常に戻っているはずです。

「あれ? 私のしあわせはどこに行ったんだ?」

これが「刺激がもたらすしあわせ」、すなわちワンナイトドリームの一部始終です。「夢よ再び!」とばかりに、ここでも終わりのない旅は続くことになります。

もうひとつの「外にあるしあわせの条件」の「所有」がもたらすのは、「何かを手に入れることで感じるしあわせ」です。こちらは人によって有形無形のありとあらゆる事柄が対象になります。

形あるほうの筆頭はやはり「お金」とそれによって得られる「モノ」でしょう。家、土地、車、衣服、バッグ、アクセサリー、電化製品、デジタルガジェット、趣味のさまざまなグッズなどなど。

私もモノが大好きなので、ほしかった一品をゲットしたときの幸福感なら誰よりも知っているつもりです。脳からはアドレナリンが出まくり、意識がややボーッとしてきて、買ったモノを触ったり眺めたりするだけで、言葉にならないしあわせ感が沸き上がってきます。

形のないものの代表といえばやはり「地位」や「名声」です。とくに、多くの人にとって「有名になること」には抗えない魅力があります。人によっては「権力」もしあわせをもたらすものに該当するでしょう。

「何かを手に入れることで感じるしあわせ」にも2つの欠点があります。ひとつは、誰もが経験しているように、

「何かを得た瞬間に、それを失ってしまわないかと心配になる」

ことです。

「得たものを必死に守らなければならなくなる」と言ってもいいでしょう。つまり、この手のしあわせは「何かを得たその瞬間」がピークで、時間の経過とともに「恐れや不安」のほうが大きくなるという特徴があるのです。

もうひとつの欠点は、私たちがふだんあまり自覚していない次のことにあります。

「得たことに喜びを感じるためには、それを得ていない他人が必要になる」

文章で読むだけではピンとこないかもしれません。とくに、「地位」や「名声」「有名」「権力」などの無形のものにはこの条件が不可欠です。

たとえば、あなたひとりしかいない状態では「地位」という概念は成り立ちません。まわりにあなたよりも位の低い他人がいて初めて、あなたは「地位」を得られようになります。

「名声」や「有名」もまったく同じです。そこにはあなたを称えてくれる「自分よりも名声をもたない他人」の存在が不可欠です。そして、あなたを「有名」であらしめるのは、無数の「無名」の人たちでもあるのです。

こうしてみると、「何かを手に入れることで感じるしあわせ」とは明らかに、

「他者に依存したしあわせ」

であることがわかります。拙著やこのブログ流に言い換えるならばそれは、

「他者と利害が対立するしあわせ」

でもあると私は考えます。

さて、これまで書いてきた「刺激がもたらすしあわせ」や「何かを手に入れることで感じるしあわせ」の良し悪しを議論することにたいした意味はありません。

それよりも、このような方法によって得られる「しあわせ」が、私たちにとって現実なのか、それとも幻想なのかを見極めることのほうが重要だと私は考えます。

そして、もし幻想だとしたら、最後には蜃気楼のように逃げていくそのようなしあわせを、人生を賭けて追い求める価値が本当にあるのかを、真摯に検討すべきなのではないでしょうか。