昨日の記事で書いたように、私たちには、異なる2つのものを比較して優劣や貴賤を判断する、「相対的なものの見方」の習慣が染みついています。
それは、「評価」をするときに限ったことではありません。私たちが「これは何だ?」と思うような、よくわからない物事に出くわした際も同様です。
その対象だけを凝視して、深掘りして、正体や本質に迫るのではなく、
「わからないものとは反対に見える別の何かをもち出してきて、両者の違いを見比べることで、それが何かを把握しようとする」
のです。
たとえば、「愛」という概念があります。たしかに「愛とは何か?」を語ることは簡単ではない感じがします。そこで、その反対に見える「憎しみ」などの別の概念を登場させ、それぞれの違いを想像してみます。
その結果、「なるほど、相手を憎んでいない状態が愛か」「愛が憎しみに変わらないように、気をつけなければ」などと考えることができれば、「愛」については、少なくとも「理解不能な状態」からは脱したことになるわけです。
今日は、この「相対的に眺めてみれば、物事の本質を把握できる」というイリュージョンを疑うとともに、それによって私たちが陥りがちな「ある罠」について書いてみようと思います。
もう一度、「愛」の話に戻りましょう。もし、愛の反対が「憎しみ」だとしたら、次のような行動はどちらに分類されるのでしょうか。
「ある人をこれ以上、憎まないように距離を置く」
仕事や家庭、恋愛など、さまざまなシチューエーションで、私たちが実際に行う可能性のある、ふつうの選択です。これは愛と憎しみのどちらの行動と捉えればいいのでしょうか。
おそらく、この人はすでに相手を憎んでいると予想できます。でも、その状態を変えるために相手から離れることを選ぶとするなら、憎しみを減らすための行動、すなわち「愛に向かう行動」ということになります。
なるほどと思えなくもありませんが、もし、これが正しい結論と言われたら、私はなんともいえない気持ちわるさを覚えると思います。やはり、心からは納得できません。
グッドバイブスにも「愛」の話は登場します。残念ながら私も、その本質を言葉で完全に説明することはできません。ただ、愛の反対側の概念などこの世に存在しないと考えています。
私の解釈はこうです。まず、私たちは、
「愛という存在」(I’m love.)
として生まれてきました。愛とは私たちが行う「行為」ではなく、私たちの「存在」自体が愛であるということです。
そして、「愛という存在」の反対に位置するものなど、この世界にはありません。たしかに、私たちが頭で創り出した物語の中には、それに匹敵しそうな「悪魔」や「魔女」「鬼」「怪物」などが登場します。
けれども、私はこれまで生きてきて、それらを一度も目撃していません。宇宙の隅々まで探せば、もしかしたら見つかるのかもしれませんが、少なくとも私が住むこの世界には「いない」と考えても差し支えないと思います。
「いやいや、ニュースを観れば、そういう人間のオンパレードじゃないか」という反論はもっともだと思います。
そのように見える理由を私は、歳を重ねるに従って、さまざまな「恐れや不安」を抱くようになり、いつしか、
「自分が愛という存在であることを忘れてしまう」
からだと考えています。
ただ幸運なことに、多くの人をおかしな行動へと駆り立てる「恐れや不安」はすべて、「意味づけ」や「未来の妄想」「罪悪感」などによって、私たちが頭で創り出すイリュージョンにすぎません。
だとすれば、それらの幻影を手放しさえすれば、私たちはいつでも「愛という存在」に戻れることになります。
それは自分や他の人を攻撃する理由をいっさいもたず、自他の利害を「同じもの」と見ることができ、しあわせであるために、けっして「分離」の選択をしない、本来の私たちです。
これがグッドバイブスにおける「愛」の解釈です。まとめるとこうなります。
「愛とは、あらゆる恐れや不安が、実際には存在しないイリュージョンであることを、心から受け入れることができたときの私たち」
ここに登場する「恐れや不安」は愛の反対の概念ではありません。「愛である私たち」は実在しますが、「恐れや不安」は幻影、すなわち「無」だからです。
ここで注目してほしいのは、多くの場合、「相対的なものの見方」をしようとすると、私たちは反対側にイリュージョンを創り出してしまうというメカニズムです。
たとえば、グッドバイブスでいうところの「平安な心」もしかりです。私たちはふだん、これを、
「悩みのない状態」
「不安がない状態」
と捉えています。
漠然と「平安な心」と言われてもつかみどころがありません。そこで、比較の対象として「悩み」や「不安」をもち出しながら、「相対的なものの見方」でそれを把握しようとしているのです。
当然ですが、この瞬間に、私たちは「悩み」も「不安」も「実在するもの」とみなすようになります。
実はそれだけではなく、同時に、
「悩んでいる時間、不安な時間がなければ、平安であることも実感できない」
という、不思議な信念をもつようになります。
この考え方によって私たちは、
「悩みや不安もまた、平安を味わうためには必要なこととみなす」
という、かなり困った習慣を身につけてしまうのです。
若い恋人同士が、「最近、ケンカもしなくなって、なんかマンネリなんだよね」というあの感覚です。いつか愛し合っていることを実感するために、「もめにもめて、こじれにこじれる」ことを、自ら欲しているといってもいいでしょう。
これが冒頭に書いた「ある罠」の正体です。
まず、平安を理解するために、悩みや不安を実在のものとみなします。次に、「だとしたら、自分が悩んだとしても仕方ない」と意志を緩めます。
そして最後には、「この悩みがあるからこそ、あとでより大きな平安を感じられるだろう」と、いまの望ましくない状態さえも受け入れてしまうのです。
これこそが、「意味づけ」や「未来の妄想」を、自らの意志でやめることが難しいと感じる最大の原因だと私は考えます。
もし、グッドバイブスのメソッドを成功させたいと思うなら、何よりも「平安な心」に対して「相対的なものの見方」をしないことが大切です。
すでに書いたように、私たちに苦悩をもたらす、あらゆる「恐れや不安」はイリュージョンです。ぜひ、次の大前提を忘れないでください。
「しあわせな存在として生まれてきた私たちにとって、平安な心でいることが唯一の現実である!」
「恐れや不安」を抱いている自分、しあわせでないと感じる自分、悩んでいる自分に、「それも現実だ」と甘んじない強い意志をもつということです。
そして、「愛」や「しあわせ」と同じように、「平安な心」を実感するために、その反対の状態を体験する必要など、いっさいないと考える習慣をつけてください。
この「苦しければ喜びもひとしお」のように、相対的に何かを感じようとするやり方を私は、
と呼んでいます。
サウナ風呂で限界まで高温に耐えて、水風呂に飛び込んで解放される、あのM(マゾ)的な行動に似ているからです。
水風呂は確かに壮快ですが、その快感を味わうためには、100度の部屋で5分以上は熱気に耐えるという代償を支払わなければなりません。
ぜひ、悩んだり、不安を抱えたりしている状態を、「いつか水風呂の快感を得るためには仕方のない代償」と捉えていないかを自分に問いかけてみてください。
そして最後に、もし私たちが「いま生きている」ことを実感するために、「相対的なものの見方」を用いるなら、比較の対象として何をもち出すことになるかをイメージしてください。
そのうえで、「いま生きている」という事実を、「絶対的なものの見方」で見直すことができたら、あなたの人生からどのような「恐れや不安」が消えていくかも想像してみてください。
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