相対的な見方では与えるや愛は偽善に思える

今日は「相対的なものの見方」と「絶対的なものの見方」について考えてみようと思います。

ふだんの私たちは、あらゆる事柄を「相対的」に判断しようとします。たとえば、「あなたは背が高いか?」と聞かれたとしたらどうでしょう。

他の人々を見渡しながら、「平均より上なので高いかも」「学校で身長順に並んだとき、前のほうだったので低いと思う」など、比較の中で答えをイメージするはずです。これが「相対的なものの見方」です。

おもしろいことに、身長のように客観的に数値化できるものだけでなく、抽象的な概念さえも私たちは相対的に測ろうとします。

「あなたはどのくらいしあわせか?」「あなたの価値はどのくらいか?」といった質問でも同じように、「Aさんよりはしあわせで、Bさんよりは不幸」「Cさんよりは価値が高くて、Dさんよりは低い」といった見方をするのもこのためです。

ごくごく日常的な判断の仕方なのですが、ここで見逃してはならないのは、「相対的なものの見方」には、抽象的な概念そのものを「本当は存在しないもの」とみなしてしまう、かなりたちのわるい罠が仕掛けられているという点です。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』のエピローグに「愛に基づく選択」という話が登場します。「愛とは何か?」も私たちにとっては究極の謎のひとつです。試しに、この本来は数値化などできない概念を、あえて相対的な図にしてみましょう。

左に「自分本位100パーセント」、右に「他人本位100パーセント」のグラフを描きます。「相対的な愛度のバロメーター」と思ってください。

自分本位100ーーーーーーーーーー他人本位100

実はこのグラフ、一般的な愛の捉え方に近くないでしょうか。なんのことはない、私たちは愛も相対的に見ているということです。

左端は「他人のことなどいっさい気にしない。自分さえよければいい」で、愛度ゼロです。右端はその真逆で「自分の生命もかえりみず、真っ先に他人を救う」で、愛度マックスです。

「あなたはこのグラフのどの位置まで行けるか?」と聞かれたとしたらどうでしょう。自分本位90、80あたりまでは行けそうですが、真ん中を超えたあたりからもう現実離れした感じがし始めます。

右端の他人本位100に達することなど、リアリティーのかけらもない、それこそ「偽善」の世界のように思えないでしょうか。もちろん、私もこのグラフを見る限りそう感じざるを得ません。

こうして私たちは仕方なく、

「愛なんてただの幻だよ」
「愛なんて信じちゃダメだよ」

という結論に達するわけです。

「しあわせ」や「自分の価値」もまったく同じです。相対的に見てしまえばかならず同じところに行き着くことになります。「そんなもの本当はありはしないよ」というわけです。

はたしてそれが真実なのでしょうか。もし「いや、何かが違う気がする」と感じるなら、相対的ではなく、

「絶対的なものの見方」

でそれらを見直す必要があります。

バックナンバー「令和の時代は優雅な調和へと向かう」で書いたように、この世界は完璧なハーモニーを奏でながらいまここに存在しています。私はその様子を「すべてがうまくいくシステム」と見ています。

ではなぜ、完璧に調和し、完全にうまくいくのでしょうか。それは、

「この世界全体が愛そのものである」

からだと私は考えます。

だとすれば、この世界の一部であると同時にこの世界とひとつである、

「私もまた愛そのものである」

と捉えていいのではないでしょうか。

ここにおいては、「どのくらい愛を発揮できるか?」などという「相対的なものの見方」は意味をもちません。そうではなく、あなたの存在自体が愛、すなわち、

「I’m Love」

なのです。

愛であるあなたが行うことは、グラフで測るまでもなくすべてが自然と愛の行動となる。これが「絶対的なものの見方」から浮かび上がってくる愛の本質です。

前話「与えた瞬間に与えられるを実感する行動」で、「与えること」について書きました。

同じように、先のグラフを左が「得る100」、右が「与える100」に置き換えてみてください。私たちが到達できるのはせいぜい、「得る50、与える50」のフィフティー・フィフティーの地点です。

「与える」もまた、相対的に見れば「偽善」と結論づけるしかないところに帰着してしまうのです。

愛と同様に「絶対的なものの見方」で「与える」を定義し直してみましょう。まず、先に書いた世界の完璧な調和を「この世界全体が与えることで成り立っているから」と捉えます。

すると、「この世界は与える存在である」と同時に、その一部である、

「私もまた与える存在である」「I’m a giver」

となります。

ただし、「そのような存在である」という話を理屈だけで理解することは不可能です。自分がそうであることを知るには、そうである体験をする以外に方法はありません。

実は、前話で紹介したメソッドはそれを感じるためのものでもあります。そして、この実践をとおしてあなたが「与えられるもの」とは、まさに「自分が与える存在である」、さらには「自分は愛そのものである」ことの実感にほかなりません。

ぜひ、このことをふまえて前話のメソッドをもう一度、試してみてください。そのとき、古くから言われる「Love is giving」が何を意味するかも明らかになるのではないかと思います。

Photo by Satoshi Otsuka.