時間はなくなったり無駄にできたりするのか

バックナンバー「夢中と必死は生きている時間の違い」で私は、絶対にありえない仮定の極みのような話と前置きしたうえで、

「私たちの生命が永遠だとしたら、時間の概念がまったく必要ではなくなる」

と書きました。

それは同時に、私たちの中からあらゆる「恐れや不安」が消え去ることを意味します。なぜならば、私たちが「平安な心」でいられなくなる理由の大半が、「時間」に関連しているからです。

「自分には時間がない!」
「1秒たりとも無駄にできる時間などない!」
「私は他の人に時間を奪われている!」

そんな思いの中、焦ったり、慌てたり、急かされたりしながら、多くの人が、いつもどこか落ち着かない人生を送っているのではないでしょうか。だとしたら、「時間」とは、私たちにとって、さまざまな恐怖を生み出す根源であるとも言えるわけです。

そこで今日は、「時間がなくなる」「時間を無駄にできない」という感覚が、本当に現実のものなのか、本当にそれをもたずには生きていけないのかを疑ってみようと思います。

紛れもない事実として、私たちの人生には終わりがあります。ある人が80歳まで生きたとしたら、その人のもち時間は、

「80年=2万9200日=25億2288万秒」

ということになります。

これを長いと思うか短いと感じるかはそれぞれの判断ですが、人生という時間が「有限」であることだけは間違いありません。そこで私たちはこう感じるようになります。

「20年生きたとしたら、残り時間は60年。だからすでに20年を失っている」

私はすでに57歳なので、残りは23年です。もう人生の大半どころか、約4分の3を失ってしまっているということです。

たしかに、このように時間を捉えることは、恐怖以外の何ものでもありません。「残り少ない人生をどうすれば有意義に過ごせるのだろう?」。そんなことを頭に思い浮かべるたびに、冷や汗が出そうなくらい底知れぬ不安が押し寄せてきます。

ただ、この「時間を失った」という感覚、冷静になって検証してみると、どこか実体験とはズレているような、妙な違和感がないでしょうか。

それは、こう自問してみればわかります。

「自分はこれまでの人生で、時間を失ったことがあるだろうか?」

ぜひ、文字どおりに解釈してください。あなたの人生から一瞬でも「時間」が消え去ったり、奪われたりしたことがあったかを確認してほしいのです。

深く考えるまでもなく、そんな経験をした人はひとりもいないはずです。私たちの前にはいつでもリアルな時間「いま」があり続けています。いまこのブログのこの位置を読んでいるあなたにも、その「いま」があります。

では、いつ私にとっての「いま」はなくなるのでしょうか。もちろん、「私の人生が終わる瞬間」です。だとすれば、いままさに「時間」に関しての重大な事実がひとつ判明したことになります。

それは、

「生きているかぎり、時間を失うことなどない!」

という紛れもない事実です。

もうひとつの問題は、「でも、人生の時間は有限だから、刻一刻と減っている」という説にどう向き合うかです。

実は、ここにも疑問の余地はあります。先にサラッと「80歳まで生きたとしたら」と書きましたが、

「その期限を明確に知って生きている人は、この世にひとりもいない」

のではないでしょうか。

先に挙げたような数値は、「何歳まで生きる」という前提で割り出したシミュレーションにすぎません。それはあくまで架空の話であって、けっして現実の残り時間ではないのです。

またしても、重大な事実がひとつ浮かび上がってきました。

「生きているかぎり、どれだけ残り時間があるかを知ることはできない!」

そしてここに、私たちが「時間」の恐怖から逃れるための唯一の救いがあります。人生にはたしかに終わりがあります。でも、「いつそれが来るかは誰にもわからない」とすれば、冒頭に書いた夢物語のような仮定が、あながちありえなくもなくなるからです。

次の2つの条件つきで、私たちは永遠の時間の中にいられるということです。

① 生きている限り。
② 終わりがいつかわからない限り。

どんなときでも、私たちが「時間がない!」と感じるのは、

「自分で終わりを決める」

からです。

「明日までに!」「10年以内に!」「29歳までに!」などの期限を設定すれば、「時間」に対する恐怖が沸き上がるのは当然です。

そして多くの場合、そうせずにはおれなくなるのは、バックナンバー「本気を出すと疲れるという幻想から抜け出す」で書いた、

「できるだけ多くのことを実行したり、体験したりする人生のほうがしあわせ!」

という価値観によるものではないでしょうか。

人生を「このための時間」「また別のこのための時間」とぶつ切りにしながら、無数の終わりを自分で設定し、結果として「時間が足りない」という不安を自分自身にもたらしているとしたらどうでしょう。

もしかしたら私たちは、「生きている限りなくならないし、どれだけ減ったか知るよしもない」という時間の本来の姿を、自らの願望によって、より過酷で恐ろしいものにねじ曲げているのかもしれないのです。

最後に検証したいのは「私たちは本当に時間を無駄にすることができるか?」です。こちらは、「時間がなくなる」問題よりもはるかに簡単に答えが出せます。

たとえば、あなたが出来のわるい部下を指導するために、3時間を費やしたとしましょう。あるいは、3連休を使っていろいろやろうと予定を立てていたにも関わらず、3日間ともソファーでゴロゴロして何もできなかったとしましょう。

どちらも、一般的には「不本意ながら、無駄な時間を費やした」と判断されがちなケースです。人生の中にこの手の時間をできるだけ作らないようにと、多くの人が注意を払っています。

では、その出来のわるい部下が指導の甲斐あって、1年後にあなたの率いるプロジェクトで大活躍をしたとしたらどうでしょう。3連休をゆったり過ごしたことが、翌週からの仕事に集中力を発揮する要因になっていたとしたらどうでしょう。

本当に、「あの時間は無駄だった!」と確信をもって言い切れるでしょうか。

この世界は「原因」と「結果」でできています。でも、私たちにはそのあいだに存在する「因果関係」を正確に解き明かすことはできません。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』にも書いた「風が吹いたら桶屋が儲かる」のたとえのとおり、一見、何の関係もないように見えるさまざまな出来事が、複雑に絡み合いながら、予想を超えた「結果」を生み出し続けるからです。

ここに、私たちの極めて短期的な、「15分を無駄にした」という判断など入り込む余地はありません。そうではなく、

「いまは、15分を無駄にしたように見える」

だけなのです。「15分を奪われた」もまったく同じです。

ぜひこのことを、「ああ、もしかしたら自分は人生を浪費してきたのかもしれない」という罪悪感を手放すための、心強い根拠にしてください。その判断は、あなたの人生が終わるときまで、誰にも下せるものではありません。

だとしたら、

「無駄なことなどひとつもない!」

と人生を見るほうが、はるかに楽で、自由で、軽くて、ご機嫌だと私は思います。

よく考えてみると、「時間を無駄にすべきではない」という発想は、人生が終わったときに、休憩室のような部屋にゆったりと座って、「私の人生」という1本の映画を観ながら、「おお、よくやった自分!」と評価できることが前提になっているように思わないでしょうか。

そのようなシステムがあるかどうかは、実際にそちらの世界に行った人に聞いてみなければわかりませんが、もし休憩室も映画もなかったとしたら、すべては台無しです。

それならば、お楽しみを先送りするのではなく、「いまここ」で自分のやりたいことを、好きなだけ時間をかけて、心ゆくまでやり尽くせるという報酬を、一瞬一瞬から得ておきたいと私は思います。