「夢中」と「必死」は生きている時間の違い

今日、私の20年来の友人である「がくちょ」こと仲山進也さんが、Facebookにこんな投稿をしました。

「夢中と必死の違いってなんですか?」

タイムラインでこの問いを見つけた私は、気がつくと、ほぼ反射的に自分なりの答えをコメントしていました。それほど深いというか、数多くの示唆が含まれたテーマだと思ったからです。

そこで今日は、グッドバイブスの視点から見た「夢中」と「必死」の違いについて書いてみようと思います。

私たちはふだん、「時間」という概念をもって生きています。人によって微妙な差はあっても、おおよそそれは、

「自分の外にあって、自分の行動を決める基準や指針のようなもの」

と捉えられているのではないでしょうか。

午前6時に起床し、8時には自宅を出て、9時前に会社に着く。13時から部署の会議に出て、15時に取引先とのアポ。18時に仕事を終え、19時に帰宅して23時に就寝。

「時間」という万人に共通のメジャーがあるから、いま自分は何をすべきかがわかり、他の人と約束をして会うことができ、電車やバスなどにも乗れるわけです。

では、絶対にあり得ない仮定の極みのような話ですが、

「もし、私たちの生命が永遠だとしたら」

どうでしょう。それでも「時間」という概念は必要でしょうか。

たとえば、あなたが友人のひとりに会いたいと思ったとします。普通なら、メールなどで日時と場所を決めて集合するでしょう。たしかに、「時間」がなくてはそんな約束もできません。

けれども、あなたも友人も永遠に生きられるとしたら話は別です。

なぜならば、予定など決めなくても、いつかバッタリ出会う偶然の機会を気長に待てばいいからです。何百年かけても会えなければ、さらに何万年か何億年か待っていれば、いつか必ず2人が遭遇する日は来るはずです。

あるいは、57歳になった私が、「いまからイチローのような野球選手になることを目指して練習しよう!」と思ったとしても、この世界ではそんな夢を叶える「時間」は私に残されていません。

でも、永遠の生命が与えられた世界なら可能性はゼロではなくなります。千年くらいかけて、世界でもっとも優秀なコーチに就いて練習を重ねれば、いい線まではいくかもしれません。そのコーチを雇うお金も、十万年もあれば稼げるでしょう。

こうしてみると、寿命のない世界においては、「時間」という基準や指針はまったくといっていいほど、その役割を失ってしまうことがわかります。

ただのくだらない夢物語なのですが、実はここに、「なぜ私たちは時間という概念を必要とするのか?」の答えがあるように思うのです。

それはほかでもない、

「いつか人生に終わりが来るから」

ではないでしょうか。

つまり、私たちにとっての「時間」とは、

「人生の終焉に向けてのカウントダウン」

と見ることもできるということです。

だからこそ、「時間」は私たちの外にドンとあって、いつでも「はい、あと何十年、あと何年……」と刻んでくれるものでなければ意味がないのです。

もちろん、すべての人が、秒単位でそのカウントダウンを気にしながら生きているわけではありません。ただ、「いつか終わる」という動かしがたい事実が、私たちに「短い人生」「儚い人生」という強烈な縛りをかけているのは確かです。

この感覚は、あらゆる場面で私たちに大きな影響を与え続けています。仕事でも遊びでも、何をするにも、「時間がない!」「早くしなければ!」「急ぐんだ!」と感じるとしたら、やはりそれは、「人生の終わり」を強く意識しているからではないでしょうか。

一方で、私たちは、この急かされる感覚とはまるで違う「時間」に出会うことがあります。まるでピタッと止まってしまったような「時間」、時計の動きよりもゆっくりと流れていくような「時間」、そう、

「いまここ」

です。

あなたも子どものころ、最高に楽しい遊びに熱中した経験があると思います。「時間」を忘れて何かに没頭していたら、親から急に「ご飯ができたよ! 早くかたづけなさい!」と呼ばれ、ハッと我に返るあの感じです。

たしかに楽しい「時間」に終わりが来た瞬間です。この世界では基本的に、何もかもが終わるようにできています。

そこで質問です。リアルに思い出してください。

「遊びだけに熱中しているとき、あなたは、その終わりを意識していたか?」

もし答えが、「いや、親に言われるまで、そんなことは考えてもいなかった」だとしたら、あなたはしばらくのあいだ、

「永遠の時間にいた!」

と言えないでしょうか。

だとすると、私たちが生きるこの世界には、次の2つの「時間」が、同時に存在することになります。

「いつか終わる時間」と「永遠のように感じる時間」

そして、ここがもっとも重要なポイントなのですが、2つの「時間」のどちらにいるかは、

「私たちが時間をどう捉えるか、どう感じるかで決まる」

のです。

「終焉に向けてのカウントダウン」と捉えれば、「いつか終わる時間」がやってきます。「いまここ」で何かに没頭して、終わりを忘れてしまえば、「永遠のように感じられる時間」に出会えます。

あなたが心から待ち望んだサッカー大会があったとします。もちろん、あなたは出場選手のひとりです。この日のためにチーム一丸となって何か月も練習を重ねてきました。

キックオフの瞬間、あなたはおそらく「永遠のように感じる時間」にいるでしょう。「やっとこの日が来た!」そんな思いの中、ただただ目の前のボールに集中するからです。当然、90分後に来る試合終了のことなど、想像の外のさらに外です。

ところが後半の40分ころ、相手チームに先制点を許したところで状況は大きく変わります。ロスタイムも入れて残りはあと7分弱。「ヤバい!」「何とかしなきゃ!」という焦りの中、あなたは「いつか終わる時間」へと移動します。

このように、私たちは、同じ「サッカーの試合」の中でさえ、捉え方の違いによって2つの「異なる時間」を体験しているのです。

さて、問題は「そうはいっても、人生はかならず終わる」という紛れもない現実をどう受け止めればいいかです。

実は、幸いなことに、私たちには唯一の救いがあります。それは、

「いつそのときがくるかは、誰にもわからない」

という、やはり紛れもない事実です。

この意味で、私たちの人生は、サッカーの試合とも、期限のある仕事ともまったく違うと言えます。終わりはあるにはありますが、期日はその瞬間まで未定だからです。プロレスでいうところの「無制限一本勝負」みたいなものなのです(笑)。

ここからはそれぞれの人生観です。「こうしろ、ああしろ」などと言われる筋合いのものではありません。

でも、こんなふうに自分の人生を捉えることも、けっして不可能ではありません。

「親が突然、ご飯ができたと呼ぶまで、いまここで永遠の時間を満喫する!」

「マジかよ?」と思うかもしれませんが、終わる時間と永遠の時間、そのどちらが幻想で、どちらが現実かは、人生が終わるときまで謎のままだと私は思います。

全編が前置きになってしまいましたが(笑)、そろそろ、がくちょの問いに答えなくてはなりません。

「夢中」には何か、まわりが見えていないような、何か脳天気な雰囲気を感じる人もいるでしょう。反対に「必死」には、計画性や目的があって、しっかりしているようなイメージもあります。

けれどもそれは、「人生は短い」「だから無駄に過ごしてはいけない!」という「正しさ」をもとに判断した印象ではないでしょうか。

「夢中」になっている人が、まわりが見えていないように感じるのは、「いまここ」で目の前の事柄だけに集中しているからです。必要なら、いつでもその対象を「まわり」の何かに変えることができます。

「必死」な人が計画性や目的をもっているように見えるのは、「いつか終わる」という「恐れや不安」を抱きながら、「早くよりよい人生を築かなくては!」と未来にフォーカスしているからです。

つまり、

夢中:「永遠の時間」の中で、いまやりたいことにフォーカスしている状態
必死:「いつか終わる時間」の中で、未来のために動いている状態

これが私の結論です。

がくちょ、おかげでいつか書こうと思っていた「時間」の話ができました。「重いかもなぁ」と意味づけして、つい手を出すことを躊躇していたテーマです。ナイスな問いをありがとうございます!

Photo by Satoshi Otsuka.