「まわりの評価」という呪縛から逃れる方法

日本に住むAさんが、米国の有名雑誌の「2019年、世界にもっとも影響を与えた100人」に選ばれました。発表当日から、Aさんのもとにはマスメディアの取材が殺到し、ニュース番組やワイドショーへの出演依頼もあとを経ちません。

世の中から評価されることを願ってがんばってきたAさんにとって、長年の夢が叶った至福の瞬間でした。数日後、雑誌社からニューヨークで開催されるパーティーの招待状が届きます。これぞまさに晴れ舞台。Aさんは喜び勇んで渡米します。

ところがパーティー当日、会場に入ったAさんは、日本にいたときとはまったく別の感覚を抱いている自分に気づきます。なぜならば、そこにいるのは誰もが知るような、各界の著名人や有名人ばかりだったからです。

「今年の100人」といっても、表紙を飾った実質上のナンバーワンもいれば、見開きで紹介されたトップ10の人たちもいます。ちなみにAさんの掲載順は97番目で、8分の1ページの扱いでした。

会場にはAさんの顔を知っている人など誰もいません。親しげに会話を交わすセレブに気圧されて、いつのまにか壁の花になっていたAさんは、本当に栄光を掴んだのか、それとも屈辱を味わうためにここに来たのか、自分でもわからなくなっていました。

実はこの物語、ある質問の答えに添えてかならず伝えるようにしている、私が創作したフィクションです。これまでに、もう10人以上には話したと思います。

その質問とは、

「他人の評価が気になり始めると、どうしてもグッドバイブスでいられません。どうしたらいいでしょうか?」

というものです。

「意味づけ」や「未来の妄想」を手放し、平安な心でいられるようになったのに、なぜか「上司やまわりの人から評価されない」という場面に遭遇するとザワついてしまう。そんな悩みを多くの人が抱えているようです。

そこで今日は、どうすればこの「まわりの人からの評価」という呪縛から逃れられるかについて書いてみようと思います。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』で私は、

「その条件を外に置いた瞬間に、私たちにとってのしあわせは、結局のところ運まかせになってしまう」

と書きました。それも冒頭のプロローグの部分です。つまりこの考え方は、グッドバイブスの根幹を成すもっとも重要な大前提なのです。

「他人からの評価」はあなたの外にあります。もし、これをしあわせの条件のひとつに加えるなら、その瞬間に、あなたのしあわせは人まかせ、運まかせになることは必然です。

まずは、「本当にそれでいいのか?」を真摯に吟味する必要があります。

次に、あなたが自分の評価を委ねているのは、このブログでも何度も書いてきた「本当のことを何も知らない」人間という事実を、どう受け止めるかです。

それは、自分の美意識や哲学や価値観を絶対と信じ、自分なりの正しさ、すなわち「意味づけ」を手放せない人間です。

好き嫌いもあれば、気分の波もあり、昨日と今日では真逆のことを言い出しかねないそんな不確かな存在が、

「いつでもあなたを正当に評価できるのか?」

を疑わなくていいのでしょうか。

前の上司は自分を高く買ってくれたのに、いまの上司はまったく認めてくれない。ある人は自分の仕事を絶賛してくれたのに、別の人はまったく同じ成果をまるでゴミのようにけなす。それがこの世界の評価というものです。

そこに、自分のしあわせを預ける価値や信憑性が本当にあるのでしょうか。

さらに、「評価されたい!」という私たちの心の奥底を探ってみると、かなりエグい事実が隠されていることに気づきます。

たとえば会社の納会で、あなたの部署の部長がこう言ったとします。

「今年は本当によくやってくれた。私はこの部署の全員を高く評価しています!」

あなたもこの部署の立派な一員です。部長が「全員を評価する」と言っているからには、当然、あなたも高評価を勝ち得たことになります。ではこのとき、あなたの「評価されたい!」という欲求は満たされているでしょうか。

おそらく、答えは「NO!」であるはずです。なぜならば、

「自分だけが評価されたわけではない」

からです。

学校でいうならば、あなたも含めたクラス全員が100点ではまったく意味がありません。他の人たちが99点以下で、あなただけが100点でなければダメなのです。これが、私たちの求める「評価」の正体ではないでしょうか。

「評価されるとは、自分だけが特別であると認められること」

にほかなりません。

では「自分だけが特別」という状態はどうすれば作り出せるでしょうか。オセロにたとえるなら、「あなただけが黒で他の人は白」になれば間違いなく達成できます。注目すべきは、それが何を意味するかです。

あなたが特別であるためには、

「平凡な他の人という背景」

が不可欠なのです。

ここからはそれぞれの人生観です。「それのどこがわるいの?」と思ったとしても、私を含めて、誰からも文句を言われる筋合いはありません。

ただし、この道を行くには相当の覚悟がいることだけはたしかです。そのことを伝えたくて書いたのが冒頭の話です。

「今年の100人」に選ばれたAさんは、日本では他の人を背景にして特別であることに成功しました。けれども、その100人が集まるパーティー会場で、特別であったはずの自分が、表紙や見開き組の人たちの背景になっていることに気づきます。

つまり、どこまでいっても上には上がいる、

「相対評価を勝ち取る旅には、けっして終わりはない」

ということです。

究極的には、この「特別争い」の世界で真にしあわせを得られるのは、頂上にいるたったひとりだけです。それも、「別の誰かにチャンピオンの座を奪われるまで」という厳しい期限つきでです。

グッドバイブスや「ひとつ意識」の世界には、「他の人を背景にする」などという発想はありえません。それは「分離」をもたらすだけでなく、四六時中、「明日は我が身」という「恐れや不安」と戦う日々であるはずだからです。

では、「評価」という問題にどう対処すればいいのでしょうか。私は、この世でもっとも自分のことを熟知していて、唯一、正当な評価ができる存在に、その権利を渡すしかないと考えます。

その存在とはいうまでもなく、

「あなた自身」

ではないでしょうか。

しかも、ここでの評価は、時間を帯で見て、何かを行った結果に対して下すのではありません。もちろん、誰かと比べて測るのでもありません。

「いまこの瞬間に、どれだけ納得のいく楔(くさび)を打ち込めているか?」

の手応えを、自分自身で評価し続けるのです。

そもそも、終わってしまったことを採点してもほとんど意味はありません。いったん出てしまった結果はもう変えられないからです。

そうではなく、いつでも変更可能な「いま」をリアルタイムに評価しながら行動すれば、着地点も自分の意志で選べるようになります。そしてこれこそが、妥協しない、手を抜かない創造の仕方だと私は考えます。

これさえ実現できていれば、「まわりの人からの評価」は、少しばかり気になることはあっても、あなたの心を支配して揺らすようなことはなくなるはずです。

たしかに、ほめられることには抗えない魅力があります。けれども、私たちが本当に満足できる報酬は、いつでも「いまここ」の手応えだけです。

「自分はやれている!」「間違いなくよくなっている!」「まだ行ける!」、そんな毎分、毎秒の感触が、あなたに存在価値と前に進む勇気をもたらしてくれます。

そうして完成した仕事がたまたま評価されたとしたら、「ああ、いいオマケがついてきたなぁ」と素直に喜べばいいのではないでしょうか。でも、あなたはすでに「いまここ」から最大の報酬を得ています。他人の評価はオマケでいいのです。