一昨日の「自分を苦しめる世界を自分自身で創造しない」と、昨日の「過去→未来→の無限ループから脱出する」と、2日続けて「ひとつ意識」に帰るための3つの入り口、
・「意味づけ」を手放すこと
・「いまここ」にいること
・「罪悪感」を手放すこと
が、どのような「ノイズ」を私たちから取り除いてくれるかを見てきました。
今日のテーマは最後に残った「罪悪感を手放す」ことです。拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』の最終章に登場し、「ひとつ意識への架け橋」と表現したこのメソッドは、まさにグッドバイブスの取り組みの総仕上げです。
それだけに、他の2つと比べて「さすがにそれは難しい!」と感じるかもしれません。でも安心してください。「難しい」はいつでも意味づけです。
一昨日からたどってきた「意味づけを手放す」と「いまここにいる」が、抵抗感を薄める助けになってくれるはずです。
罪悪感は、
「自分や他人の望ましくない言動を罪とみなす」
こと、すなわち「罪の意識」によって生まれます。
あなたの中にも次の2つの「罪の意識」があるはずです。
・自分のしたことを罪と感じる意識
・他人からされたことを罪と感じる意識
どんなときでも、「罪」が単独で存在することはありません。かならず「罰」という概念がセットでついてきます。このため、「あ、この言動は罪だ」とみなした瞬間に、私たちは「だから罰を与えなければならない!」という思いを抱きます。
そして、相手が自分であれ他人であれ、「罰」の目的は罪を犯した人物を戒めることにあります。当然、それは罪の大きさに比例して手厳しいものでなくてはなりません。多くの場合、私たちはそれを「攻撃」という手段で与えようとします。
つまり、罪悪感とは、
・自分のしたことを罪と感じたから、自分に罰という名の攻撃をしたい!
・他人からされたことを罪と感じたから、相手に罰という名の攻撃をしたい!
という願望でもあるのです。
前者の「自分に罪に対する攻撃」には、あなたを弱くする効果があります。何かをやらかしたことで罪悪感を抱き、自分自身を責めている場面を思い出してください。そこにはいつもの何倍もちっぽけで、無力なあなたがいるはずです。
後者の「他人の罪に対する攻撃」は、相手とのあいだに分離や分断をもたらします。あなたは彼らを「許せない!」と感じ、そのような危険で不快な人たちを自分とは異質の存在と見ているからです。
これが、本来は「ひとつ意識」にいたはずの私たちを、「バラバラ意識」に追いやることになった、「罪悪感」というノイズの正体です。
当然ですが、「罪と罰」の意識と、それによって私たちが繰り出したくなる「攻撃」の衝動をもったまま「ひとつ意識」に帰ることはできません。
ではどうすれば、一見、絶対に抑えがたいと思えるこの罪悪感を手放せるのでしょうか。
まずは、根本的なところを疑うことから始めましょう。
「はたして、罪というものは存在するのか?」
と自問してみるのです。
ここではあえて、司法制度や犯罪といった一般論に入り込まないようにしてください。そこにはたしかに罪という概念は存在しますが、それが正しいかどうかを議論することに意味はないからです。
そうではなく、あなたという個人の心の中において、本当に罪が存在しえるかを考えてみてほしいのです。
グッドバイブスはイデオロギーではありません。社会を変革するような力もなければ、それを目指してもいません。あくまで「ひとりの心」に向けて書かれた本という前提で話を進めましょう。
あなたが他人の言動を罪とみなし、それにふさわしい罰を相手に与えるためには、
「裁く」
という行為を経なければなりません。ぜひ、ここで厳密に「正当に裁くためには何が必要か?」を吟味してみてください。
少なくとも、その人がどのような意図をもって、どのような経緯でそれを行い、あなたにどのくらいの被害を与え、それによってこの先、あなたの人生にどれだけ負の影響がもたらされるかなどを、極めて正確に把握しなければならないはずです。
さらに突き詰めていくと、いま挙げた以外にも、あなたには思いつくことさえできないような要検討の項目が残っている可能性もあります。
そのうえで、その罪と釣り合う罰を、同じように寸分の狂いもなく想起することができて初めて、あなたは「相手を裁く」ことができるのです。
はたして、あなたや私にそのような能力があるのでしょうか?
もし、それが不可能だとしたら、私たちが抱く「罪の意識」や、それによって与えようとする「罰」とはいったい何なのでしょうか?
私が予想するに、
「放っておくと、私たちは間違った言動を行ってしまう生き物だ。罪を犯してしまう存在だ。だからそのたびに罰を与えて、厳しく律しておかないとこの世界の平和は保てない」
という考えによって生み出された、「バラバラ意識」を生き抜くための防御策なのだと思います。
だとすれば、それは間違いなく「意味づけ」です。なぜならば、私たちは「けっしてそのような存在ではない」可能性があるからです。
この世界を「孤独で弱い自分が、多くの敵に囲まれて生きる、過酷で厳しい場所」と見ている人には、受け入れがたいことかもしれませんが、もし「罪と罰」が「意味づけ」であるならば、
「罪悪感もまた妄想である」
と私は考えます。
私たちの気分や機嫌によって左右される、儚いものと言ってもいいでしょう。
私たちが「間違った言動をしてしまう生き物」であることは紛れもない事実です。けれども、そこにわざわざ「罪の意識」を持ち込まなくても、私たちは間違いを修正して改めることができます。
相手が望ましくない言動をしたときも、罰という攻撃するのではなく、ただ「この状況を一緒に改善したい」と愛をもって伝えれば、たとえ時間や労力がかかったとしても修正は可能です。
さらにいえば、すべての「罪とみなされる行動」は過去に行われたことです。前話で見てきたように、過去は実在しないバーチャルな時間です。だから、「罪」はいつでも私たちの記憶の中だけにあるのです。
「過去が存在しなければ、そこで行われた言動も、いまここには存在しない」
悔しさや復讐心で目を曇らせなければ、このことも認められるはずです。
これで「罪悪感」というノイズを消し去るための道具はすべて揃いました。「意味づけ」を手放し、「いまここ」だけをリアルな時間と捉えられれば、罪も罰も必要ではなくなります。
このことを受け入れたとき、私たちは「バラバラ意識」から「ひとつ意識」に帰るための入り口にたどり着くことができます。
「自分や他人を赦す」
という架け橋を渡ったということです。
それは同時に、次の3つの信頼を手に入れたことを意味します。
・自分を信頼すること
・他の人を信頼すること
・この世界を信頼すること
あとはもう一度、
「自分の見方が変われば、この世界も一変する!」
と確信する地点から始めればいいだけです。
以上で「ひとつ意識に帰るための入り口」三部作は完結です。「どうも最近はバラバラ意識にいることが多いなぁ」と感じたときにまた読み返してみてください。
私もみなさんとまったく同じように、行ったり来たりを日々、繰り返しています。もちろん、そこに罪悪感を抱くことがないように気をつけています。それでいいのだと思います(笑)。
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