拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』に登場する「ひとつ意識」「グッドバイブス」「愛に基づく選択」は同義語です。その反対には「バラバラ意識」「バッドバイブス」「恐れや不安に基づく選択」があります。
そして、いまあなたがどちらにいるかは、2つの行動、
「コミュニケーションか? それとも攻撃か?」
のどれを選択しようとしているかでわかります。
今日のテーマはこのうちの「攻撃」です。私たちにとっての攻撃とは何か、なぜそれを行おうとするのか、それがどのような結果をもたらすかについて書いてみようと思います。
私たちが他の人を攻撃する目的で行う表現は、「不機嫌でいる」「無視する」「質問をしてやりこめる」「意地悪をする」「否定する」「見下す」「差別する」など、無数にあります。
中でも、もっとも頻繁に繰り出されるのが「怒りをぶつける」ことでしょう。私たちにとってあまりに日常茶飯事になっているため、多くの人は「怒ること」を、条件反射や当然の反応、あるいは抑えがたい衝動のように捉えがちです。
けれども、よく精査してみると、私たちが怒るためには次の3つの条件が揃っていなくてはなりません。
① 相手の言動によって、たしかに私は何かを失った!
② だから私が相手を攻撃することは正しい選択である!
③ 私が攻撃することを選んだ全責任は相手にある!
あなたが相手を攻撃する理由が①です。これがなければ怒ることはできません。ただし、だからといってあなたは、すべてのケースで怒るわけでもないのです。
たとえば、絶対に関係を悪化させたくない相手、反撃されるのが恐い相手、まわりから見てあきらかにいじめと映るような弱い相手の場合は、「怒りをぶつける」ことが②の「正しい選択」とは言えません。
また、ミスをした、こちらが相手を傷つけたなど、①の言動を引き起こした原因の多くが自分にある場合は、③の「全責任は相手にある」という条件が満たされなくなります。
ある出来事に遭遇したわずか数秒のあいだに、私たちはこの3条件をとっさに判断して、それらが満たされない場合は怒らないことを選択します。つまり、怒りはけっして条件反射や反応、衝動ではないということです。
まずはこのメカニズムを押さえたうえで、次の問いについて考えてみてください。
「では、本当にこれら3つの条件が揃うことがあるのか?」
私たちが日々、怒っているとするなら、問答無用で答えは「YES!」となるはずです。はたして現実はそのとおりなのでしょうか?
ひとまず、もっともやっかいな①は置いておくことにして、②の「正しい選択」から吟味してみましょう。
これに関しては、
「相手を攻撃することが、問題を解決することになるか?」
を疑ってみればすぐに答えは出ます。
強い絆で結ばれた師匠と弟子のような特殊な関係は別として、あなたが相手を攻撃することによってもたらされる結果は、おおよそ次の3つしかありません。
A 相手も反撃してくる。
B 相手が自分に屈服する。
C 相手は逃げ出すか、受け流そうとする。
すべては、あなたと相手の力関係によって決まります。対等であればA、あなたの腕力や権力が相手よりも強ければBかCに帰結します。
Aはいわゆる戦争状態なので、解決とはほど遠いことはあきらかです。Bを選んだ相手は、ただあなたの怒りに怯えただけで、内心ではまったく納得していないでしょう。Cの相手も「この面倒な状況から抜け出したい」だけで、解決を望んでいるわけではありません。
問題は、このような結果しかもたらさない攻撃が、本当にあなたにとっての「正しい選択」なのかということです。もし、怒る目的が徹頭徹尾「相手に復讐する!」ことであれば、ある意味で正しいのかもしれません。
けれども、あなたが職場や家庭で、「いま目の前で起こっている望ましくない状況を改善したい」と思うなら、攻撃という手段は、どんなときでも「間違った選択」と言わざるをえないのです。
だとすれば、同時に③の信憑性が揺らいでしまうのも必然です。なぜならば、相手の「おかしな言動」に直面したあなたには、いつでも2つの選択肢があるからです。
A この嫌な状況を好転させたい!
B この嫌な気持ちを晴らしたい!
Aを選んだあなたは、「これは2人のあいだで起こった共通の問題」とみなし、解決のために相手と「コミュニケーション」を行おうとします。
反対に、「これはあくまであちらの問題」と感じ、Bを選ぶことを意志決定した場合にのみ、あなたは攻撃という手段に打って出ます。すでに書いたように、この選択からは解決という結果は望めません。あなたは「解決をあきらめる」と決めたのです。
あなたの意志によって行動が2つに分かれるとするなら、事実はこうなります。
「あなたは相手に怒らされたのではなく、自分の意志で怒った」
残念ながら、「私が攻撃することを選んだ全責任は相手にある!」は大きな誤解です。そうではなく、その責任はすべて「私にある」のです。
最後に、保留しておいた①について見てみましょう。それによってあなたが怒りを覚えたとしたら、相手の言動は間違いなくおかしなものであったはずです。
その結果あなたは、「理不尽な扱いを受けて傷ついた」「仕事の進捗が大幅に遅れた」「やる気を失った」などの、精神的または物理的な被害を被ったと感じることでしょう。日常的な感覚でいえば、たしかに損をしたのだと思います。
そのような損得感ではなく、もっと根源的な存在としてのあなたを感じながら、こう自問してみてください。私も、かなりハードルが高いことを承知のうえで、あえて書いています。
「私という存在から、何かを奪うことなど本当にできるのだろうか?」
盗みや暴力などの犯罪行為まで含めてしまうと、さらにハードルが上がってしまいます。ひとまずは、あなたのまわりで日々、起こるふつうの出来事の範囲で考えてみてください。
もしここで「いや、何人といえども私からは何も奪えない!」と言い切れたとしたら、誰のどんな言動に対しても「私は何かを失った」という感覚をもたずにすみます。それはすなわち、あなたの中からすべての「怒る理由」が消えたことを意味するのです。
もちろんこの答えは、あなたが心から納得したうえで出すしかありません。困難に思えるかもしれません。でも、けっして不可能なことではないと私は思います。
この件に関しては、バックナンバー「まわりにいるバッドバイブスな人への対処法」や「愛の選択と恐れや不安の選択の違い」で書いた、
「恐れや不安に基づく選択をする人は、いつでもあなたに愛を求めている」
も参考にしてみてください。
「おかしな言動」をする人は、何らかの「恐れや不安」を抱いています。同じく、かなりハードルが高いと思いますが、あなたを怒らせる人は、あなたに助けを求めていると捉えてみてください。
そして、その人を助ける方法は、「コミュニケーション」によって「恐れや不安」を取り除く以外にありません。もしその試みが成功したなら、あなたは多くのものを得ることになるでしょう。
だから、攻撃することを選ばない限り、私たちが何かを失うことなどないのです。
Photo by Satoshi Otsuka.
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