今日のテーマは「愛に基づく選択」と「恐れや不安に基づく選択」です。拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』のエピローグで書いたように、私たちはいつでもこの2つのうちのどちらかを選んでいます。
それも、「愛に基づく選択」が60パーンセントで、「恐れや不安に基づく選択」が40パーセントのように、両方を同時に行うことはできません。つねにゼロかイチかの二者択一になります。
ただ、それぞれの選択を言葉だけで定義するのは至難の業です。とくに、「愛に基づく選択」と聞くと、自分を滅してひたすら他人に尽くす、「自己犠牲」のイメージをもつ人も少なくないでしょう。
けれども、「愛に基づく選択」とは「ひとつ意識」をもって行動することにほかなりません。だとすれば、それによって自分が何かを失ったり、誰かの犠牲になったりするようでは、まったくつじつまが合わないのです。
そこで今日は、ある夫婦の例を見ながら、2つの選択がどのようなもので、何をもたらすかを見ていこうと思います。
仮に、倉園家という家族があったとします。もともと共働きでしたが、半年前に長女が生まれ、夫婦で話し合った結果、奥さんがしばらくのあいだ育児休暇をとることになりました。
この奥さんは根っからのキレイ好きで、家の掃除にはかなりのこだわりをもっています。出産前は、どれだけ仕事が忙しくてもけっして手を抜くことなく、家中をピカピカにしていました。
ところが、さすがに初めての子育てにはかなり苦戦していて、最近は自分が理想とするキレイさを保てなくなってしまったのです。
ここで奥さんの中に「恐れや不安」が生まれます。
「このままだと、家中がグチャグチャになってしまって、自分はこの家庭にしあわせを感じられなくなるんじゃないか?」
このブログの読者であるあなたなら、いま奥さんに何が起こっているかすぐにわかるはずです。
「以前ほど掃除ができなくなった」という出来事は現実ですが、まだ家中がグチャグチャになっているわけではありません。その映像は「望ましくない未来の妄想」によって生まれたものです。
また、掃除が行き届いていないからといって、かならずしも不幸になるとは限りません。こちらはおそらく、「そうでない可能性があるにも関わらず、そうであると自分で結論づけること」、すなわち「意味づけ」です。
ただし、いったん頭で思い描いてしまった「望ましくない出来事」は、この奥さんにとって紛れもない現実です。掃除がままならないという体験をするたびに「恐れや不安」は増幅されていきます。
ある日、仕事から帰宅した旦那が、脱いだ靴下をソファーに放置するのを見て、ついに我慢の限界を超えてしまいました。
「この汚れた部屋を見て、あなたは何とも思わないの? 私はもういっぱいいっぱいなの。お願いだから掃除くらいは手伝って!」
奥さんの言い分が正しいかどうか、旦那の日頃の行いがどうだったかは別として、この怒りの爆発はやはり「恐れや不安に基づく選択」です。自分で書いていても、なんとなく奥さんに味方したい気持ちになりますが、これだけは事実として認めるしかありません。
さて、重要なのはここからです。突然、不満をぶつけられた旦那はどのような選択をするのでしょうか。
まずは選択Aです。旦那は奥さんの言葉に憤りを感じて、次のように反論しました。
「前に話し合ったよね。仕事をして経済面を支えるのはオレ、子育てや家のことをやるのは君と決めたじゃないか。ただでさえ仕事で疲れているのに、なんでオレがその上に掃除までやらされなきゃならないの?」
理屈や定義抜きにしても、この発言を「愛に基づく選択」と捉える人はいないでしょう。もちろん「恐れや不安に基づく選択」以外の何ものでもありません。
では、この旦那は何に「恐れや不安」を感じているのでしょうか。奥さんと同じく、「それではこの先、自分が犠牲になってしまう」という「望ましくない未来」の「妄想」と、「それは不公平だ!」という「意味づけ」に対してです。
子育てや家事をする奥さんのエネルギーと心理的な負担をすべて数値化するなどして、客観的なデータに基づいて自分が仕事に費やすそれと比べない限り、どちらの労力が多いいかは判明しません。
そもそも、そんなデータなどこの世に存在しないのであれば、この旦那が何を主張しようとも、不公平や犠牲という結論は思い込みであって、けっして現実ではないのです。
いま夫婦のあいだで何が起こっているかを整理してみましょう。
最初に奥さんが、
「掃除ができないこと」
に対して「恐れや不安」を抱きました。けれども、すでに見てきたように、その多くは「妄想」や「意味づけ」から生まれたもので、けっして現実ではありません。
実はここに、奥さんを救う唯一の糸口があることに注目してください。
たとえば、あなたが自分の子どもと山奥のキャンプ場に泊まったとします。トイレは屋外に設置された共用施設しかありません。ところが、夜遅くにトイレに行きたくなった子どもは、外に出ることをとても恐がっています。
理由を聞くと「お化けが出るから絶対に行きたくない!」と言います。あなたはおそらく、その子の手を握ってトイレまでの道のりを一緒に歩き、「ほら、お化けなんかいなかったでしょ?」と、「現実」を見せてあげることで彼の恐怖を取り除くでしょう。
けっして、この奥さんが子供じみているなどと言いたいわけではありません。妄想によって「恐れや不安」を抱いている私たちはみな、本当はいるはずのないお化けを恐がる子どもと同じ罠にはまっているという事実を共有したいだけです。
つまり、
「妄想のお化けなんて、ちっとも恐くないんだよ!」
という「現実」を見せることができれば、私たちは相手が誰であっても、その人が抱く「恐れや不安」を消し去ることができるのです。
では、この旦那は「掃除ができないこと」を恐がる奥さんに何をしたでしょう?
「自分も掃除をすることが恐い!」
と、掃除という同じ対象に「恐れや不安」を抱くことで、奥さんの「妄想」を完全な「現実」として確定させてしまったのです。
先のキャンプの例でいえば、こともあろうにお父さんが「オレだってお化けが恐いんだから、一緒に行くなんて絶対にイヤだよ!」と、子どもの恐怖をまさに「現実」のものにしてしまったということです。
これが、怒りや憤りという手段で自分を攻撃しようとする相手に、攻撃で応戦することの本質です。相手と一緒に「妄想」を現実に変えてしまい、同じように「恐れや不安」を抱く、どこにも救いのない世界といってもいいでしょう。
もうひとつの選択Bを見てみましょう。こちらはもちろん「愛に基づく選択」です。
旦那は奥さんの怒りの言葉にそれほど大きな意味などないことを知っています。反論したり、自分を正当化する代わりに、
「何がそんなに恐いんだい?」
と相手の「恐れや不安」のほうに目をやります。
奥さんは恋人時代から長年連れ添った愛しい人です。すぐに、彼女がキレイ好きであること、その分野に関してはある意味で完璧主義であること、理想どおりに行動できないと罪悪感をもつことなどを思い出します。
そんな彼女にとって「掃除ができない」現状は、この世の終わりのように感じられることも理解できます。同時に、
「だからといって現実には、掃除にそれほどの恐怖をもたらすパワーなどない」
ことも熟知しています。
重要なのはそれをどうやって伝えるかです。「いやいや、掃除しなくても大丈夫だよ」などと気休めを言っても、彼女がそれを受け入れるはずはありません。
そうではなく、
「掃除なんて、恐るるに足らずだよ!」
という事実を、身をもって証明すればいいだけのことです。
「よっしゃ、じゃあ分担を決めよう。オレは風呂とトイレの掃除をやるってことでいいかな?」
とあっさり言い放ち、キッチリと有言実行できたとしたらどうでしょう。
旦那が掃除に対する「恐れや不安」を手放すことができれば、キャンプ場のお父さんのように、「自分たちを不幸にするようなお化けなんて、ここにはいないんだよ」と、「現実」の安全さを証明したことにならないでしょうか。
これが「恐れや不安に基づく選択」の真反対にある「愛に基づく選択」です。
ぜひ、シンプルに、
「恐れや不安に基づく選択をする人は、いつでもあなたに愛を求めている」
と捉えてみてください。
つまり「愛に基づく選択」とは、このブログでも何度か登場した「与える」と同義なのです。そして、そこにはいつでも不変の法則があります。
「愛に基づく選択によって与えれば、その瞬間に与えられる」
「自己犠牲」もなければ、それによって失うものなど何もない、ただお互いにとって平安な世界が創られるだけです。
Photo by Satoshi Otsuka.
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