無理な要求や理不尽な扱いにどう対応する?

このブログに書いてきたいくつかの事柄をまとめて読むと、ある大きな疑問を抱くことになるかもしれません。

あなたが相手の望むことを完璧に与えればいい!
心の底から苦手な人や、大嫌いな人を赦す
自分が信じている正しさとは、私たちにとっての壮大な幻想
怒りではどのような問題も解決できない

つい先日、私はある知人からまさにドンズバの質問を受けました。

「つまり、相手が無理難題を要求してきたとしても、相手からどれだけ理不尽な扱いをされたとしても、すべて受け入れて、なすがままでいろということですか?」

おそらくこの知人も、まさか私が「そのとおりです!」と答えると予想していたわけではないと思います。ただ、冒頭に挙げた文言だけを見ていると、どうしても無抵抗や無条件の受容といったイメージをもってしまうこともたしかです。

今日は、私自身の体験をもとに、この興味深い疑問に答えてみようと思います。

結論からいえば、もしいま、私がとうてい実行できないような無理難題をふっかけられたとしたら、キッパリと「それはできません」と断ります。また、明らかにおかしな扱いを受ければ、「それはやめてください」とお願いするでしょう。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』 にもこのブログにも、自分が実践できていないことは書いていません。つまり、与える、赦す、自分の正しさを盲信しない、怒りを手放すなどを実行しながらも、私はけっして「なすがまま」ではないということです。

「それなら、普通のやり方と同じじゃないか?」と思うかもしれません。けれども、そこには大きな違いがあります。それは、

「相手とのあいだに生じている問題を修正したいのか、それとも自分を不快にさせた相手を攻撃することで嫌な思いを晴らしたいのか?」

の目的や動機の違いです。

無理難題な要求も、理不尽な扱いも、私にとっては修正可能な問題にすぎません。そして、私はどんな相手ともいい関係でいることを望みます。なぜならば、そうでなくては私が「平安な心」でいられなくなるからです。

そして、この目的を達成するためには、無抵抗や無条件の受容では不十分です。たとえその場はごまかせたとしても、同じようなことが繰り返されるたびに、心を揺らすことになるとすれば、「なすがままでいる」ことは何の解決にもなりません。

そこで私は、ひたすら相手とのあいだに生じた問題を修正することだけにフォーカスします。その場かぎり、一度きりの言動であれば、ただ「それはやめてほしい」とリクエストすればいいだけです。

そのような言動を繰り返してしまう根本的な何かを相手がもっていると感じた場合は、その源泉である「恐れや不安」を探ることに尽力します。

「恐れや不安」が見つかったら、誤解を解いたり、相手が主張するのとは別の可能性を提案したりすることで、それを和らげるための努力もします。

多くの場合、これで私のゴールである、

「問題を修正し、いい関係を取り戻し、平安な心でいること」

は実現できます。

もちろん、ケースによってはそれなりに時間を要することもありますが、その間に事態が悪化に向かうようなことはまずありません。ゆっくりとでも、修復に向かって動き出すことがほとんどです。

ただし、このプロセスの中で一瞬でももうひとつの動機ある、「自分を不快にさせた相手を攻撃することで嫌な思いを晴らしたい」を望んだとしたら、すべてがうまくいかなくなります。

その理由はこのブログで何度も書いてきたとおりです。

「相手が望ましくない言動をするのは、私を攻撃したいから。その攻撃に私が攻撃で応戦するならば、相手はさらに守りを固めて攻撃の手を強めることになる」

この、止めることが極めて難しいメカニズムが動き出してしまうからです。

いったんこの状態に陥ってしまったら、解決の道は完全に閉ざされたと思ってください。考えられる結末は、力のある側が弱い側を抑えつけて終わるか、永遠に続く敵対関係のまま平行線をたどるかのどちらかしかありません。

いずれにしても、「平安な心」とはほど遠いところに放り出されることに変わりはありません。私はこのような結果を望まないから、相手へを赦し、怒りや嫌悪感、そして「自分は絶対に正しい」という思い込みを手放しているだけのことです。

ここで「修正可能な問題」とは何かをはっきりさせておきましょう。それは、

「自分が抱いた恐れや不安を、他人を攻撃することで解消しようとする思い違い」

にほかなりません。

パワハラや過労の強要、スタッフへの不当な扱いなど、いま世の中で話題になっているあらゆる問題の根源がここにあります。このような思い違いを修正するためには、それを生じさせた原因である「恐れや不安」をどうにかする以外に有効な方法はないと私は考えます。

「あなたが相手の望むことを完璧に与えればいい!」

の真の目的もここにあります。「与える」とは、相手の無理難題にどこまでもつき合うことではありません。

デパートで「買って!」と泣き叫ぶ子どもに、言われるがままにおもちゃを買い与えても問題は解決しません。そうではなく、二度とそのような苦しい嘆願をしなくてすむように、おもちゃをもっていない自分に「恐れや不安」を抱く必要はないと教えるのが「与える」ことではないでしょうか。

「相手の要求することが、かならずしも相手に必要なものとは限らない」

と捉えてください。そして、何かの問題が生じている場面で相手に必要なものとは、十中八九、「恐れや不安」を取り除くことです。

相手の「恐れや不安」を探ることは想像するほど難しくありません。あなたにその意志があり、攻撃や復讐心ではなく、興味と愛をもって相手を眺められれば必ず見つかります。

なぜならばそれは、あなた自身も経験してよく知っているあの「恐れや不安」とまったく同質のものだからです。

最後に、今回の質問に対する私の正直な答えを書いておきます。

「怒りや嫌悪感を手放して問題の修正に専念していれば、無理難題な要求も、理不尽な扱いも次第にあなたのまわりから消えていきます。だから心配は無用です」

信じられないかもしれませんが、間違いなくあなたもこのような世界を目撃できると私は確信しています。