「怒り」をもつことは不快な感情を抱くことであり、誰もがそうならないことを望んでいるように見えます。けれども、なぜか私たちは、問題を解決するための有効な手段として「怒り」を使うことがあります。
たとえば、自分とは主義主張が異なる人と議論するとき、部下が自分の思いどおりに動いてくれないとき、家族やパートナーが自分の美意識に反する行動を繰り返すとき、あなたも一度や二度は、「怒り」によってその望ましくない状況を変えようとしたことがあるはずです。
さすがに、最近はあまり聞かなくなりましたが、私が若いころには「若者は怒りを忘れてはダメだ」という教えがまかりとおっていました。あるいは、あまり怒らない人を「あいつは牙を抜かれている」などと揶揄することもあります。
では私たちは、その「怒り」という牙で何をしようとしているのでしょうか。これが今日のテーマです。心を落ち着かせて、「問題を解決する手段として怒りを用いる」ことの本質について考えてみたいと思います。
まず、確認しておきたいのは、「怒りをぶつけられた相手がどうなるか?」です。細かな違いをのぞけば、おおよそ次の2つの反応しかありません。
① 力関係が対等以上であれば、相手は同じように怒りで反撃してくる
② 力関係が対等未満であれば、相手は屈服するか、屈服したふりをする
いわゆる「議論が紛糾する」「ケンカになる」ケースが①です。意見の違いは平行線をたどり、よほどの奇跡でも起こらない限り互いが折り合うことはありません。
教師と生徒、コーチと選手、上司と部下、親と子どものように、怒る人が怒られている人よりも力をもっているケースが②です。
怒りをぶつけられた側の恐怖が大きい場合は屈服することを選びます。あなたにも覚えがあるように、それほど恐くないと感じる場合は、屈服したふりをしてその場の気まずさを回避しようとします。
注目すべきは、「怒り」によって相手からこのような反応を引き出すことが、本当にあなたの望むような問題の解決になっているかどうかです。
攻撃の応酬に終始する①はどうでしょう。相手を力でねじ伏せるか、ねじ伏せたような気にさせてくれる②はどうでしょう。あなたの感性は「それでよし」とするでしょうか。
もうひとつ、「怒り」には大きな欠陥があると私は考えます。それは、
「自分を清廉潔白とみなさない限り、相手に怒りをぶつけることはできない」
というメカニズムです。
ぜひ、あなたが「もう我慢の限界だ!」とキレる瞬間を思い出してください。それはまるで、たび重なる非道、無法に耐えてきた映画の主人公が、「これ以上は許せない!」と悪党集団のアジトに乗り込むような気分ではないでしょうか。
このとき、私たちは「自分にも非がある」などとは微塵も感じていません。たとえ、「いや、私にも問題はあった」とわかっていたとしても、その事実は心の奥底に閉じ込めているはずです。
なぜならば、「自分ではなく相手が100パーセントわるい!」とみなさない限り、私たちは本気の「怒り」をぶつけることなどできないからです。
この「自分を清廉潔白とみなし、相手に怒りをぶつける」という行為が何を意味するかを真摯に考えてみましょう。このとき私たちは、
「明らかに正しい自分が、完全に間違っている相手に罰を与えようとしている」
のです。
そしてこれが、バックナンバー「自分の過ちも他人の過ちも罪に変えずにおく」で書いた、相手の間違いを罪に変えてしまう最初の一歩でもあります。
2人のあいだで起こった間違いは、どちらか一方ではなく、両者がそれぞれ修正しなければ真の解決にはいたりません。その際に重要なのは、
「たとえ、相手だけに非があるように見えたとしても、過失度10対0などということはあり得ない」
という事実をしっかりと認識しておくことです。
先に挙げた「怒り」に対する相手の反応、そして自分だけを清廉潔白な状態に置くことが、この「両者の修正」に相反していることは明らかです。これが、「怒り」ではどのような問題も解決できない最大の理由だと私は考えます。
Photo by Satoshi Otsuka.
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