なぜ私たちは将来の不安を手放せないのか?

私たちはよく、「将来のことが心配でたまらない」という状態に陥ります。心配の対象は、数時間後や数日後の近い将来の場合もあれば、10年後、20年後、老後などの遠い将来の場合もあります。

「将来の心配」も含めた、すべての「未来についての悩み」は、

「頭の中で、好ましくない未来を想像、妄想する」

ことから生まれます。

つまり、そもそも正確には予測できない未来について、あれこれと考えるのをやめれば、私たちは将来の不安や心配を完全に手放すことができるのです。

けれども、そのような仕組みがわかっていても、多くの人が「それはできない」「それはしたくない」と言います。中にはきっぱりと、「想像をやめるくらいなら、まだ心配しているほうがいい」という人もいます。

今日は、「なぜ私たちはそこまでかたくなに、好ましくない未来の想像や妄想をやめようとしないのか?」について考えてみようと思います。

最初の理由はこれです。

「私たちは、自分が何かを知らないという状態にあることを許せない」

自分について、他人について、仕事について、身のまわりの環境について、とにかく「知らない」という状態でいることを拒もうとします。

ところが、バックナンバー「知っているを手放すと最良の判断に導かれる」や「なぜ私たちは自分のことをよく知らないのか」で書いたように、それらすべてについて、私たちは本当のことを何もわかっていません。

もちろん、誰にも予測できない「未来」について知ることなど本来、不可能なはずなのですが、知らないことを許さない姿勢がその事実をねじ曲げてしまいます。結果として私たちは、

「過去のデータを騒動員すれば、きっと頭の中で未来を描くことができる」

と思い込んでしまうのです。

ふたつめの理由は、

「うまくいかない未来を想像すればするほど、安心を得られる」

という、とんでもない勘違いにあります。

たしかに、近い将来に自分が望まない出来事に出くわすことは恐怖です。恋愛であれば大好きな相手と別れること、仕事であれば大失敗をやらかすこと、会社が傾くこと、病気になること、家族の絆が壊れること。

そこで、もっとも悲惨と思える出来事が起きると想定しておけば、実際にそのような悲劇が起こったとしても、それほど動揺することなく対応できるという、いたって弱気な防御策を講じるわけです。

いわゆる「リスクヘッジ」というやつです。リスクヘッジと聞くと、一見、賢そうな感じがしますが、ここには自分自身を、ほぼ永遠に悩みの中に閉じ込めてしまう大きな落とし穴があります。

なぜならば、

「私たちは頭で描いたとおりに、世界を見ようとする」

からです。

たとえば、あなたが出社する前に、深く傷つかないための防御策として、「今日もあのムカつく上司にイヤミを言われるに決まっている」と、頭の中で最悪のシナリオを想定しておいたとします。

職場に着くやいなや、「○○くん、ちょっといいかな」と上司に呼ばれます。「ほらきた!」とあなたは思うでしょう。ところがその朝、上司は純粋に仕事上のアドバイスをしたくてあなたに声をかけたとしたらどうでしょう。

本来ならありがたくその言葉を受け取るところですが、あなたの中には「イヤミを言う上司」という現実がすっかりできあがっています。話の中身などそっちのけで、頭に描いておいた映像を上司に投影しながら、「ああ、やっぱり予想どおりになった」と思うでしょう。

なんのことはない、「最悪を想定していれば動じない」というろくでもない作戦によって、私たちは他人や出来事を、現実よりもわるく見ずにはいられないという罠にはまっているわけです。これが私たちのもつ創造力です。

もちろん、そのようなリスクヘッジが何の防御にもなっていないことは言うまでもありません。

最後の理由は、これまで書いてきたような目的を果たすために、

「少しでも空いた時間があれば、未来を想像、妄想する習慣が染みついている」

からです。

トイレに入っているとき、風呂につかっているとき、電車に乗っているとき、歩いているときなど、何もしていない時間に少しだけでもいいので、ぜひ「いま自分は何を考えているか?」を見張ってみてください。

おそらく、暇さえあれば「先のこと、先のこと」と、頭の中で未来についてのシミュレーションを繰り返しているはずです。そしてその大半は、あなたにとって「望ましくない映像」ではないでしょうか。

無意識でもやれるほど習慣になっているうえに、先に書いたようなメリットを感じているとすれば、そう簡単に「未来の想像、妄想」を手放せるはずがりません。これが、「想像をやめるくらいなら、まだ心配しているほうがいい」と言いたくなる最大の理由です。

もちろん、ワクワクするような未来を思い描くことには何の問題もありません。それを私たちは夢や希望や「お楽しみ」と呼びます。そうではなく、結果として多くのエネルギーを浪費し、何もできない時間がどんどん過ぎ去っていくような負の妄想を手放すだけの話です。

最大の分岐点は、

「未来を知らないことを許し、未来を知らないことに慣れ、未来を知らないことに大きな可能性を感じる」

ことができるかどうかです。

そして何よりも、安心を得るために未来の妄想など必要ないと確信するためには、

「実際に、これまでの人生は予想どおりにいかないことだらけだった。けれども、自分はギリギリでもそれらすべての事柄に対処できた。だからいまこうして生きていられる」

という輝かしい実績を、現在のあなたが残してきた事実に気づくことです。