「意味づけ」を手放せば興味と愛が生まれる

セミナーやパーソナルセッションなどで「意味づけ」を手放す話をすると、次の2つの質問をされることがあります。

「つまり、出来事や他人の言動につけたネガティブな意味を、ポジティブなものに変えるということですか?」
「つまり、出来事や他人の言動の意味を考えないようにするということですか?」

私はどちらの問いにも「そうではありません」と答えます。

今日は、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログで書いてきた、「意味づけを手放す」ことの本質について考えてみようと思います。

まず、この話の大前提として共有しておきたいのは、

「私たちは本当のことを何も知らない」

という事実です。

詳しくはバックナンバー「わからないものはわからないまま受け入れる」や「知らないことを認め、判断することも手放す」に書きましたが、私たちが見ているこの世界のさまざまな事象は、

「それぞれがもつ固有のフィルターによって、その人が見たいと望むとおりに変換された映像」

に過ぎません。

この「個々のフィルターによる変換」が「意味づけ」です。

にもかかわらず、私たちは自分の「意味づけ」によって見える世界が絶対に正しいと信じ込んでいます。

これによって、いったん、つらい仕事、イヤな出来事、嫌いな人と「意味づけ」した事柄は、自分にとって紛れもない現実となり、結果として、逃れるのがとても困難な苦悩へと、自分自身を追い込んでしまうことになります。

唯一の救いは、

「本当は何も知らない自分がつけたこの意味は、間違っているかもしれない」

と認めることにあります。

もし、あなたのつけた意味が完全に正しければ、つらい仕事や嫌いな人は未来永劫、あなたの前から消えることはありません。

けれども、そのような映像を創り出した自分の「意味づけ」が間違っていたとすれば、あなたの目にするあらゆるものが姿を変えてくれる可能性が生まれます。

だから、思考停止をしたり「意味づけ」をポジティブなものに変えたりするのではなく、

「ただ、意味づけを手放す」

のです。

先の「見たいと望むとおりに映像を変換するフィルター」や「意味づけ」は、ほぼすべて過去の経験から創られたものです。

つまり、私たちは、

「現在の事象を過去のフィルター越しに見ることを望んでいる」

ということです。それが自分に安心をもたらすと信じているのでしょう。

「意味づけ」を手放すとは、この保険のようなフィルターを外すということでもあります。そうすることであなたは、

「毎秒、毎分、見たことがない新しいものに遭遇する」

ことになります。

ぜひ、これまで一度も目にしたことがない事柄に出会うあなたが、どんな状態になるかををリアルに想像してみてください。そこには間違いなく、「何らかの興味」が生まれているはずです。

そして、

「興味とはすなわち愛」

にほかなりません。

人や出来事など、あらゆるものにこの「興味=愛」の状態で出会うおうとする努力。これが「意味づけを手放す」ことの本質であり、究極のゴールなのです。

Photo by Satoshi Otsuka.