私たちは、最初に対象が「どんなものであるか」を把握しなければ、それに「どう対応するか?」「どう反応するか?」を判断できません。
たとえば、目の前に炎と水があったとします。あなたは「炎は熱い」と知っているので、素手でそれに触れることはありません。反対に、「水は身体に安全な温度」とわかっているので、そこに手を浸すことが危険だとは感じません。
どちらも、炎と水が「どんなものであるか」を把握しているから、それに対応したり反応したりすることができるわけです。
ところが実際には、私たちは「それが何かを把握できないもの」に囲まれて生きています。その代表的なものが「他人の考えていること」と「出来事」です。
どれだけ人と接する機会が多くても、どれだけ特定の人物と一緒に過ごしたとしても、手に取るように相手の心が読めるようにはなりません。私たちにとって「他人の考えていること」は永遠に闇の中なのです。
「出来事」も同様です。どれだけ人生経験を積んでも、どれだけ推察能力が高くても、「なぜその出来事が起こったか?」「それがこのあと、自分にどのような影響を及ぼすか?」について、寸分のズレもなく正確に把握することは不可能です。
けれども私たちは日々、他人の言動や出来事に対応し、反応しています。この事実、よく考えると、とてもおかしなことだと思わないでしょうか。
本来は、対象が「どんなものであるか」を把握しなければ、それに「どう対応するか?」「どう反応するか?」を判断できないはずです。それなのに、なぜ私たちはとくに困ることもなく、他人の言動や出来事に対処できているのでしょうか。
実は、それを可能にしているのが私たちの行う「意味づけ」です。
私たちは、自分がどう対処するかを判断するために、あらゆる対象に自分なりの意味をつけて、
「私はこの人の言動や、この出来事について完璧に把握している」
という状態を無理やり創り出しているのです。
すでに書いたように「他人の考え」や「出来事の全貌」を正確に知ることはできません。つまり、ここでの「完璧な把握」は多くの場合、私たちの思い込みに過ぎないということです。
当然ですが、「どんなものであるか?」の把握が間違っていれば、「どう対処するか?」の判断も的外れなものになります。
炎に「安全」という意味をつけて手を触れる。水に「危険」という意味をつけて自分から遠ざける。これこそが、「なぜかうまくいかない」と感じるときに私たちがやっていることの正体です。
では、「他人の言動」や「出来事」などの把握できないことに、どう対処すればいいのでしょうか。
まず、この事実をしっかりと受け入れてください。
「私はこの人の考えていることや、この出来事の本質について何も知らない」
「いや、それなりにわかることもある!」と反論したくなるかもしれません。けれども、完璧に把握していなければ、何も知らないのと同じです。0か1かで言えば、やはり0なのです。
何も知らなければ、「どう対応するか?」「どう反応するか?」も判断できません。次はこの事実も受け入れて、自分にこう宣言します。
「何も知らない私は、判断を手放すしかない!」
そう、把握できないことは判断しないでおくということです。
「それじゃ、なにもできないじゃないか!」と思うでしょう。けれども、私たちは自分で判断しなくても、しっかりと行動することができます。正確には、
「判断しないことで、適切な行動に導かれる」
と言ってもいいでしょう。
それがどのようなものかは、実際にあなたの判断を手放しながら体験してみてください。
Photo by Satoshi Otsuka.
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