人との関わりを最小限にする処世術を手放す

「バラバラ意識」にいる私たちは、自分のまわりにいる人々を「敵か味方か?」に大別して、敵方とはなるべく関わりをもたずに暮らそうとします。

一見、敵とまではみなしていないように感じる、

「信頼できる人か、油断ならない人か?」
「気楽に話せる人か、緊張する人か?」
「得意な人か、苦手な人か?」

などの仕分けも、後者の人と距離を置こうとするのであれば、結局は同じような分類をしていることになります。

バックナンバー「分離の誘惑に打ち克てばひとつ意識が見える」で書いたとおり、私自身、この傾向を誰よりも強くもっていた人間のひとりです。

私の価値観に合う人だけが身内、それ以外の人々はみな外様と考え、自分が認めた人にしか絶対に気を許すことはありませんでした。

ごくごくあたりまえのことですが、私というフィルターをとおして選別していることから、その比率はいつでも次のようになります。

「身内<外様」(内訳は1:99程度)

なんのことはない、世の中のほとんどの人は敵ということです。

たしかに当時の私は、「人間なんて大嫌いだ!」といつも豪語していました。知らない人が集まるパーティーが大嫌い、初対面の人と話すのが大嫌い、同窓会も親類の集まりも、何もかもが嫌でした。

いつしか私は、自分という小さなカプセルに閉じこもり、

「他の人とのコミュニケーションの機会を最小にする」

とうい処世術だけを頼りに生きるようになったわけです。

これが「バラバラ意識」と、それがもたらす「分離の選択」の行き着く先です。

そのころの私がこの文章を読んだら、「それの何がわるいの? オレは心地よいのだから放っておいてくれ!」とキレられることでしょう。

けれども、その結末を見てしまったいまの私は、かつての自分に次のことを伝えないわけにはいきません。2つの逃れられない苦悩が待ち受けているのです。

・ どれだけコミュニケーションを遮断しても、家庭や職場、その他のあらゆる場面で、自分が外様とみなした人との関わりをゼロにすることはできない。そのたびに、心に大きなストレスを抱えることになる。
・「敵か味方か?」の分類は、そのときどきの味方にもかならず適用される。自分の価値観やセンスに合わない人を切り捨てるたびに身内の数は減っていき、最後には本当に「ひとり」の孤独を味わうことになる。

私ほど極端でなくても、ほとんどの人の中に「人間嫌い」の要素はあると思います。外様の人との関わりを少なくしたいという思いもしかりです。

さらにいえば、そのような感覚をもたずに心を開いて生きることが、何かとてもつもなく過酷で辛いこと、危険なことのように感じているかもしれません。

でも、先の2つの苦悩を味わい尽くした私にいわせれば、事実は真逆です。

「敵か味方か?」の分類も、自分だけの小さなカプセルも、コミュニケーションを最小にすることも、すべては「本当は無いもの」から身を守るための手段にすぎません。

このイリュージョンから抜け出して、他の人との「つながり」を回復しさえすれば、私たちはもっと楽に、自由に、そしてしあわせに生きられるのです。

これが、

「ひとつ意識に戻る!」

ということです。

では、そのためには何をすればいいのでしょうか。次の2つのことを行えば、あなたに「分離の選択」を強いていた恐ろしいイリュージョンが消え去ります。

まずはこれです。

① 正しさを手放す

あなたはいま、敵や外様に分類した人たちを「自分とは異質な存在」と見ています。その理由は、かつての私がそうであったように、彼らが、あなたの哲学やセンス、流儀、道徳観、美意識などと相反する言動をするからではないでしょうか。

あるいは、声質や肌質、匂い、表情など、生理的に受けつけられない何かをもっているからかもしれません。あなたの領域に許可なくズカズカと踏み込んでくる、彼らの距離感が苦手だということもあるでしょう。

ぜひここで、そのような「人を嫌いになる根拠」「人を拒みたくなる根拠」が、いつどこで、どのようにして生まれたかを真剣に思い出してほしいのです。

大半は、あなたの家庭で、あなたの家族によって培われたものではないでしょうか。人によっては、学校の教育や部活の指導も大きく関係しています。失敗や失恋の経験も無視できない要因です。書籍や映画の影響も少なからずあるでしょう。

それら諸々によって形成された自分の価値観を、あなたは、

「絶対に正しいと確信している」

のではないでしょうか。

もしそうだとしたら、あなたの両親の教え、これまでに出会った教師や上司の教え、元カレ、元カノとの経験から学んだこと、読んで知ったこと、観て感じたことが、どれも完璧に正しかったということになりますが、それでいいでしょうか?

いうまでもなく、この世界に、そのような非の打ち所のない指導を受けて育った人物などひとりもいません。私もあなたも、あなたが苦手な人も、みなそれぞれにおかしな部分をいくつも叩き込まれて、今日にいたっているのです。

もちろん、その中にはあなたの個性を輝かせてくれる、素晴らしい教えも数え切れないほど含まれています。それらすべてを手放す必要などまったくありません。

ぜひ、こう考えてください。

「自分の価値観のうち、誰かを嫌いと感じたり、憎く思ったりする部分があり、それが自分に負の感情をもたらしているなら、きっと正しくないし、いまの自分には必要ないものだ!」

なぜならば、このブログで繰り返し書いてきたように、

「私たちはグッドバイブスな存在として、この世に生まれてきた」

からです。

あなたと、あなたの苦手な人とのあいだに、「あなたの正しさ」という無数のハードルが置かれている様子をイメージしてください。どれも相手を「自分とは異質な存在」に見せるイリュージョン発生器です。

あなたが自分の正しさを手放すたびに、ハードルがひとつ消え、その分だけ相手の「ありのままの姿」が現れてきます。

すべてのハードルを超えた先には、自分とは違う個性をもっていたとしても、あなたとまったく同じ「グッドバイブスな存在」の彼らが待っているのです。

次に進みましょう。

② 自分と相手を赦す

あなたに負の感情をもたらすような価値観を手放せたとしたら、もう「赦す」ことはそれほど難しくありません。赦せない理由も、あなたの正しさにあるからです。

私が外様とみなした人をどうしても赦せなかったのは、それをやってしまうと、自分が自分でなくなるような「恐れや不安」を感じていたからです。

「彼らのようになりたくない!」
「彼らのように生きたくない!」

そんな脅迫観念にいつも怯えていたのだと思います。

でも安心してください。どんな人の、どのような言動を赦したとしても、自分という存在が消えることも、生き方が180度変わってしまうことも、センスや美意識が失われることもありません。

私の実体験から断言しまが、それらの「恐れや不安」もまたイリュージョンです。

まずは、この点に関して自分を赦してください。

「私は彼らを赦すことを、自分に赦す!」

残る大きな壁は、苦手な人や嫌いな人、初対面でどちらかわからない人と接するときにどうしても感じてしまう、緊張感や違和感やストレスをどうするかです。

これが嫌でイヤでたまらないから、私も「他の人とのコミュニケーションの機会を最小にする」という捨て身の戦法にすがっていました。同時に、そのような不快な思いをさせる人たちを「敵」と分類してもいました。

ここで、グッドバイブスの「意味づけ」の登場です。次のように自問してみれば、何をすればいいかが明らかになります。

「このドキドキした感じは、彼や彼女が意図的に発して私に届いているのか、それとも、私の妄想によって自分で創り出しているのか?」

ドキドキを自由自在に発することができ、それを相手の心に送り込む能力をもつ人など、この世にいるはずがありません。

すべては、あなたや私が行った「意味づけ」によるものです。「意味づけ」ならば、あなたの意志で手放すことができます。

この事実をもってして、

「私がストレスを感じるのは、この人のせいではなかった!」

ことを認め、相手を赦してください。

一週間にわたって書いてきた「ひとつ意識」に戻るための具体的な行動は、ひとまずこれで完結です。

大変かと聞かれれば、やはり「とても大変で面倒くさい」と答えるでしょう。実際に私も、すべてを実践できるようになるまでに、1年以上はかかっています。

けれども、その道のりはけっして「未来報酬型」ではありませんでした。途中にはいいことが何もなく、1年後にようやくメリットを実感できるような、苦しいだけの試みではないということです。

まったく完璧ではなくても、一歩でも前に進めば、その分だけ自由で身軽になれます。少しずつかもしれませんが、「平安な心」も得られるようになります。

「ひとつ意識」に向かう旅は、スポーツやゲームや楽器の演奏のように、やればやっただけ上達して、楽しさも手応えも増えていく「リアルタイムの報酬型」です。

そのくらいのうま味がなければ、せっかちで生来のなまけものの私が、何年ものあいだこのようなチャレンジを続けられるはずがないのです(笑)。

Photo by Satoshi Otsuka.