どこまでが指導でどこからがパワハラなのか

今日、NHKのニュース番組で「パワハラ」についての報道を観ました。今年の5月に改正された「パワハラ防止法」に基づいて、大企業は来年6月から、中小企業は令和4年度から、パワハラ防止に取り組むことが義務づけられるようです。

これに伴って、厚生労働省はパワハラの定義や対策の指針を策定中ですが、経営側と働く側の意見が折り合わず、とりまとめのめどは立っていません。

番組の取材によれば、やはり、

「どこまでが指導で、どこからがパワハラなのかの境目を見極めるのが難しい」

のが原因だそうです。

そこで今日は、グッドバイブスの視点からこの問題を見るとどのような答えが出るのか、どうすればパワハラと言われるような行為を組織から一掃できるのかについて書いてみようと思います。

まず、私はあえて「パワハラ」という言葉を使わないようにします。なぜならば、それが法律となってしまったいま、立場によってさまざまな思惑が働くことになるからです。

おそらく、経営側はできるだけパワハラの範囲を狭めようとし、反対に、働く側はなるべく多くのことをパワハラに含めようとするでしょう。そして、このブログの読者の方ならすぐにピンとくると思いますが、その論争は「意味づけ」の嵐になるはずです。

加えて、この対策の目的がパワハラを防止することではなく、「法律違反と認定されないこと」にすり替わってしまう可能性も少なくありません。

そこで私は、問題をシンプルにするために、「パワハラ」を、

「上司による部下への攻撃」

と言い換えることにします。

先に引用した、「どこまでが指導で、どこまでがパワハラか?」という設問は、そもそもの前提がズレていると私は考えます。それは、「指導が行き過ぎるとパワハラになる」という発想にほかなりません。

ここでは、「指導」と「パワハラ」は本来、同質のものであり、強弱やグラデーションの違いと捉えられています。もしそうだとすれば、「こちらとしては教えたい一心だが、つい力が入って言葉がキツくなってしまう」というエクスキューズも成り立つわけです。

グッドバイブスの視点では、この2つはまったく相容れない異質なものです。

「指導=コミュニケーション=愛に基づく選択」
「パワハラ=攻撃=恐れや不安に基づく選択」

愛をもって何かを伝えようとするコミュニケーションが、力の入れようによって「恐れや不安」が原因の「攻撃」に変わることなどありえません。

つまりこの問題は、上司である側の人間が、

「部下への攻撃はいっさい手放す」

ことを選択しない限り、解決することはないのです。

このことを前提に、あらためて「攻撃とは何か?」を確認してみましょう。以前にも書きましたが、自分の中で次の3つの条件が揃ったとき、私たちは「相手を攻撃する!」という選択をします。

① 相手の言動によって、たしかに私は何らかの被害を被った!
② だから私が相手を攻撃することは正しい選択である!
③ 私が攻撃することを選んだ全責任は相手にある!

「相手」を「部下」に変えれば、今回の話にぴったりとマッチするはずです。いうまでもなく、すべてが「妄想」なのですが、もっとも注目すべきは、

「問題を解決するためではなく、部下を攻撃するという手段によって、恐れや不安を抱いてしまった自分を守ることが目的になっている」

という点です。

少なくとも、すべてのマネージメント職の人間は、何があってもこのような妄想だけは抱かないと、強い意志をもって決意することが重要です。これだけで、いじめや嫌がらせなど、部下に対する憂さ晴らしのような行為は不要になるはずです。

残る最大の課題は、

「いや、ときには怒りをもって部下を指導しなければならないこともある!」

という考えをどうするかです。

「怒り」はもちろん攻撃です。けれども、この攻撃だけにはメリットがあると多くの人が確信しています。

以前、「すべての怒りを手放すほうがいい」と話す私に、次のような反論が寄せられたことがあります。

「私には小さな子どもがいますが、目を離した隙に、命に関わるような危険なことをやろうとします。そんなときは強く怒らないと、また同じことを繰り返してしまうのです」

私には子どもがいないので、子育ての話はまったくわかりませんが、おそらく、この考えの延長線上に、職場における「怒りのメリット」もあるのだと思います。

会社に莫大な損失を与えるようなミス、顧客に多大な迷惑をかけるような対応、組織の存続に関わるような間違いを犯しそうな部下を正しく指導するためには、怒りを発揮せざるを得ない。そんな発想です。

あるいは、何度も何度も繰り返し言ってわからない輩には、怒りをもって対応するしかないと考えているのかもしれません。

「怒り」とは相手に恐怖を感じさせる攻撃です。

「わるいことをしたら攻撃される→攻撃されるのは恐い→恐い思いをするのはイヤだ→だから、攻撃されるようなことは二度とやらない」

それこそ命運をともにするチームの大切なメンバーに対して、このような子供じみた図式が成り立つと、本気で考えているのでしょうか。

私は県内でも有数の不良が集まる高校に通っていました。70年代後半の暴走族が全盛の時期です。教師の暴力が完全に黙認されていた時代でもあります。我が校の教員たちもみな、ワルどもに対して容赦なく殴る蹴るの指導をしていました。

けれども、3年間の高校生活の中で、それによって更正した生徒を私はひとりも知りません。そればかりか、夏休みを迎えるたびに何十人という生徒が学校を辞め、さらなる悪の道に入っていく様子ばかりを目撃したものです。

16、17歳の高校生ですらこれです。ましてや大人に対して、恐怖でその行動を変えるなどというやり方が本当に通用するのでしょうか。

どんなときでも、攻撃を受けた側の反応はおおよそ次の3つに限定されます。

A:同じ攻撃をもって応戦する。
B:恐怖に負けて屈服するか、屈服したふりをする。
C:戦わずして逃げ出す。

どれに帰結しても根本的な解決にはいたりません。上司にとっては唯一、Bがそれに近いように見えるかもしれませんが、屈服した側にはかならず「恨み辛み」が残ってしまいます。けっして、状況が改善したわけではないのです。

残念ながら、「怒り」に私たちが期待するような効果はありません。だとすれば、大義名分がありそうな「怒りという攻撃」もまた、「恐れや不安を抱いてしまった自分を守ることが目的」であるということです。

この問題に限らず、あらゆる種類の「怒り」を覚えたときには、自分の中に、

「悔しさや憎しみ、苛立ち、焦り、相手に一矢報いたいという復讐心がないか?」

を確認してください。

もしそれが存在していたら、あなたは「相手の言動によって、たしかに私は何らかの被害を被った!」と感じ、その状況に「恐れや不安」を抱いています。

すでに書いたように、「何らかの被害を被った」は「妄想」であり「意味づけ」です。現実はただ、あなたと相手のあいだで、

「何らかの間違いが起こった」

だけのことです。

あなたが目の前の出来事に「意味づけ」をせずにいれば、怒りが生じることはありません。そして、「平安な心」のままでいれば、あらゆる間違いは修正できます。

まとめましょう。

「上司による部下への攻撃」に程度などありません。どんなときでも、「コミュニケーションか攻撃か?」の二択です。それはイチかゼロかの選択であり、両方をほどよく選ぶなどということは不可能です。

そのそもこの問題に「どこまでが?」などという線引きや境界など必要ないのです。大小に関わらず、どこまでいっても攻撃であることに変わりはないからです。

部下がどれだけ深刻に見える問題を起こしたとしても、どれだけ覚えがわるかったとしても、どれだけ学ぼうとする態度に欠けていたとしても、かならず「コミュニケーション」のほうを選択し、

「ほぼ無限の忍耐力をもって、言葉を尽くして伝え続けるしかない!」

のです。

そして、ひとりでも部下をもった人は例外なく、

「怒りも含めた、いっさいの攻撃を手放す!」

と決意するしかないと私は考えます。