おかげさまで、昨年の11月からスタートしたこのブログも本日で200話を迎えました。いつもご愛読いただいているみなさんに、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございます!
そんな節目の今日は、「コミュニケーション」について考えてみようと思います。
なぜならば、バックナンバー「生態系のように機能するチームや組織を創る」で書いたように、コミュニケーションは、私たちに「ひとつ意識」をもたらしてくれる、もっともわかりやすい架け橋のひとつだからです。
まずはこの質問について考えてください。
「あなたは、日々の生活の中でコミュニケーションを行っていますか?」
もちろん、すべての人が「YES!」と答えるはずです。起床とともに家族と会話し、職場では上司や同僚、部下たちと話し、遊びに行けば友人とおしゃべりをします。SNSやテキストメッセージのやり取りもすべてコミュニケーションです。
さらに意味を拡大すると、企業が製品やサービスを顧客に提供するのも、ある種のコミュニケーションと見ることができます。
同じように、ダンサーのパフォーマンスや音楽家の演奏、アーティストによる作品の創造、YouTubeに動画を配信すること、私が本やこのブログを執筆することも、観客や視聴者、読者とのコミュニケーションではないでしょうか。
つまり、コミュニケーションとは言葉を初めとするさまざまな手段によって、何かを伝え合う行為だということです。
では、あらためて考えてみましょう。なぜ私たちの生活に、コミュニケーションが必要なのでしょうか。
その理由は、
「自分と他の人々の身体が独立して切り離されているから」
にほかなりません。
あなたの身体と、他の人の身体は物理的に別のモノです。当然ですが、あなたが何を考えているかは、他の人には検討もつきません。そこで私たちは、頭の中の事柄を文字や映像などの「見たり聞いたりできる形」に変換して、相手に伝えようとするのです。
こうしてみると、コミュニケーションの本質とは、
「バラバラの状態の、自分と他の人々とをつなごうとする努力」
であることがわかります。
このことを前提に、次のことを考えてみてください。
「あなたが日々、行っているコミュニケーションの純度と精度は十分に高いか?」
あなたの頭の中にある何かを、どれだけ正確に、十分に、そして正直に、相手に伝えているかということです。
コミュニケーションが双方向であるならば、その逆もしかりです。あなたは、相手の頭の中にある事柄に対して、どれだけの興味をもって、どれだけ自分に必要なことと感じて、どれだけたくさん引き出したいと思っているでしょうか。
多くの人が「いや、そこまではやっていないよ。というか、やりたくもないし」と答えるでしょう。では、それはなぜでしょうか?
おそらく、次のような思いが大きな要因となっているはずです。
「自分としても面倒くさいし、相手にもウザいと思われたくないから」
「相手のことがあまり好きではないから」
「あまり聞くと、バカだと思われるから」
「話せば話すほど、もめそうな予感がするから」
「一生懸命に伝えても、たぶん、わかってもらえないから」
さまざまな方面から多種多様な事情が挙がっているように見えますが、すべてはたったひとつの理由、
「自分と相手を信頼していないから」
に集約されるのです。
もう一度、先の話を振り返ってみましょう。
私たちは「自分と他の人々の身体が独立して切り離されている」世界に生きています。そこで、お互いの考えを伝え合うために、「バラバラの状態の、自分と他の人々とをつなごうとする努力」を行います。
その具体的な方法がコミュニケーションです。ぜひ、この試みが最高にうまくいったらどうなるかをイメージしてください。
あなたは相手をかなりの精度で理解するでしょう。もちろん、相手も同じくらいあなたのことを知っています。完璧とまではいかなくても、喜びや痛みも共有できているはずです。
このときあなたと相手は、微かかもしれませんが、
「自分と他の人がひとつになった」
と感じているのではないでしょうか。
ただし、それはあくまで、コミュニケーションが「最高にうまくいった」場合のことです。日常の私たちは、先の「自分と相手を信頼していないから」という理由によって、「ひとつ」を実現する機会を毎回のように台無しにしています。
それはまるで、毎秒、毎分、かならず現れる「バラバラ意識」から「ひとつ意識」への架け橋を、あえて「渡らない!」と拒み続けるようなものです。
もし、あなたが「たしかにそれはもったいない!」と思うなら、ぜひ、
「コミュニケーションの純度と精度を上げる」
ことにトライしてください。
具体的にはまず、
「過去の苦い経験から、何が起こるかを想像するのをやめる」
ことです。
先に挙げた「やりたくない理由」はすべて、過去に味わった「嫌な思い」が原因になっているはずです。コミュニケーションに対するある種の恐怖感といってもいいでしょう。
その体験に基づいて、私たちは会話を始める前から「また同じようなひどい目に遭うに違いない!」と想像します。「この世界でまったく同じことは二度と起こらない」という事実を根拠に、そのような「妄想」はキッパリと手放してください。
次に、
「相手の心を読もうとせず、わからないこと、疑問に思うことをすべて聞き出す」
ようにします。想像の余地をいっさい残さないように聞き尽くせば、現実を知ることができるからです。
疑心暗鬼や取り越し苦労、深読み、思い込みなど、コミュニケーションの純度と精度を下げる要因をすべて取り除いてください。ここでは、以心伝心もあえて「できないもの」として封印しておきます。
あなたが話す側なら、
「真っ直ぐ正直に、洗いざらい伝える」
努力をしてください。
ただし、バックナンバー「身体の役割はコミュニケーションか攻撃か?」で書いたように、目的はあくまでコミュニケーションであって、攻撃ではありません。相手を言い負かすとか、ギャフンと言わせるとかのノイズを入れてしまったら元の木阿弥です。
最後に、「やっぱり無理だ」と心が折れそうになったときは、
「無条件に自分と相手を信頼する」
ことで体勢を立て直します。
私も、セミナーやパーソナルセッションでくじけそうになったときは、いつもこれを実践しています。
「これはまだ途中だ。この山を乗り越えれば絶対に伝わる。自分と相手を信じてそのまま続けろ!」
そう自分に言い聞かせて前に進みます。ただし、熱くなってはダメです。力を抜いて、自分の声に集中しながら、淡々と柔らかく会話を続けてください。
純度と精度の高いコミュニケーションは、私たちの身体でいえば、さまざまな器官をつなぐ血液や神経のような役割をはたしてくれます。
これさえ実現できれば、バラバラだった複数の人々が、ひとつの生き物のように動けるようになるのです。
もちろん、すべての試みがうまくいくわけではありません。けれども、あなたが生きている限り、トライする機会は何度でも繰り返し訪れます。「ひとつ意識」を実感するためにも、一度や二度の失敗にめげずに、ぜひ挑戦し続けてみてください。
Photo by Satoshi Otsuka.
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