「危機感」を抱くことが原動力になるのか?

先日、私のパーソナルセッションの受講者からとても興味深い質問を受けました。

「想像や妄想を手放すことで以前より軽くなった気がします。でも一方で、恐れや不安を感じていないと、自分は怠けてしまうんじゃないかとも思うのです。未来に対する危機感は、私たちにとってある種の原動力ではないでしょうか?」

まさに私たちの心理の本質を突くような見事な問いです。おそらく、多くの人が「そうそう! それなんだよ!」と、彼の疑問に強く共感したことと思います。

そこで今日は、「さまざまな危機感を、私たちは言動力として活用するべきなのか?」について考えてみようと思います。

たしかに、これまでの人生で私も「危機感」という言葉をたびたび耳にしてきました。野球部の練習試合で格下の学校に負けたとき、監督から「もっと自分たちの実力に危機感をもたなきゃ、予選を勝ち抜けないぞ!」と檄を飛ばされました。

高校受験に失敗したときは、親や教師から「もっと自分の将来に危機感をもちなさい!」と怒られました。

社会に出ればさらに多くの「危機感」を聞かされます。売り上げが落ちてきたとき、競合他社にシェアを奪われたとき、新製品の開発に遅れが出たとき、

「君たちは危機感が足りないんだ!」

あなたも過去に、経営者や上司、チームリーダーからこの叱咤を浴びせられた経験があるはずです。

これと似たような説に「天狗になってはいけない」というのがあります。自分をたいしたものだと思ってしまうとそれ以上の努力をしなくなる。油断するな、安心するな、けっして満足してはいけない、そんな戒めです。

同じように、「気を抜くと酷いめに遭うから、現状の自分に危機感をもて!」と言っているわけです。

ときに私たちは、そんな「危機感」を手放さないために、感情的なくさびを自分に打っておこうとします。あなたも一度は抱いたことがある、「この悔しさを忘れない!」「いつかかならず見返してやる!」「ギャフンと言わせなければ気がすまない!」などの感情です。

万が一、サボりたくなる弱い自分が現れても、この気持ちでそいつを消し去れば、不死鳥のように再び立ち上がることができます。競争心や復讐心を、「危機感」を失わないための抑止力にしているといってもいいでしょう。

いずれにしても、「危機感」を原動力とするやり方は、個人で夢を実現したいときや、組織が目標を達成しようとするときに採用する、一般的な「成功法則」であることは間違いありません。もちろん、それが一定の効果を上げることも多くの人によって証明ずみです。

ただ、私は次のような疑問を抱かずにはいられません。

「危機感に煽られて行動することで、はたしてしあわせが得られるのか?」

「もちろんだよ! しあわせは、夢や目標を叶えたときに得るんだよ!」と答える人も少なくないでしょう。なるほど、だとしたら、

「自分を戒める現在は、将来の喜びのための肥やし」

ということでしょうか。

いま私は受験勉強を思い出しました。たしかに学校や部活でも、「自分を戒める現在は、将来の喜びのための肥やし」と教わったような気がします。同時に、目標を達成したときや、「将来の喜び」をゲットした瞬間の気持ちも蘇ってきました。

たしかそれは、こんな感覚だったと思います。

「自分をできるだけ圧迫して追い込んでおいて、何かを成し遂げた瞬間に賞賛とともに一気に解放される!」

私は、幼いころから叩き込まれてきたこの幸福感を、

「未来報酬型のしあわせ」

と呼んでいます。

サウナ風呂で限界まで高温に耐えて、水風呂に飛び込むときのM(マゾ)的な快感に似ているので、「サウナ型のしあわせ」と言うこともあります(笑)。

この「未来報酬型のしあわせ」を確かなものにするためのポイントは2つあります。ひとつは、現在の自分の実力よりもかなり高めの目標を設定すること、そしてもうひとつが、

「いまという時間をできる限り辛く、過酷なものにする」

ことです。

我慢、ストイック、禁欲は必須です。厳しくなくては開放感も弱まってしまいます。加えて「いま」をより辛く過酷なものにするために、絶対に欠かせないのが、

「恐れや不安をもち続ける」

ことなのです。

世界でもっとも恐いお化け屋敷をイメージしてください。入り口に足を踏み入れた瞬間から、人生で味わったことのないような恐怖の連続です。誰もが、5分もしないうちに「ああ、やめておけばよかった」と後悔することでしょう。

「これ以上ここにいたら頭がおかしくなってしまう!」と自分の限界を感じたそのとき、最後のドアが開かれ、あなたは太陽が降り注ぐ外の世界に脱出します。とてつもない安堵に包まれながら、生きている喜びを全身で感じるでしょう。

「未来報酬型のしあわせ」を感じるためにも、お化け屋敷とまったく同じ効果が必要です。最後にそこから解放される快感を最大にするために、私たちはあえて未来や現状の自分に対する「恐れや不安」を抱こうとするのです。

これこそが、私たちが頼りにする「危機感」の正体です。

私は、このような「圧迫からの解放」をしあわせと捉えるやり方には、2つの大きな問題が潜んでいるように思います。

ひとつは、

「例外なく、いまは辛い時間になる」

という宿命的なメカニズムです。いまという時間が「将来の喜びのための肥やし」だとすれば、当然といえば当然のことです。肥やしが楽しいはずはありません。

ふたつめは、

「未来にとっておいた喜びは、実は一瞬で終わってしまう」

という「未来報酬型のしあわせ」を追究する人が目を背けがちな現実です。

来たるべき解放のために自分を追い込んでいるとき、私たちは未来に到来するであろうしあわせが、それなりに長いあいだ続くことを期待しています。

けれどもリアルな時間は「いまここ」だけです。そして「いまここ」とは瞬間の連続です。つまり、「何かを達成する」という時間も、実は一瞬の出来事に過ぎないのです。

もちろん、その後も賞賛を浴びる時間がしばらく続くことはあります。それでも、ノーベル賞や芥川賞、メジャーなスポーツの金メダルなどのビッグタイトルを獲得した場合で、ようやく半年から一年ほどではないでしょうか。

一般的な職場なら、達成の喜びを味わえるのは一週間からせいぜい一か月くらいでしょう。たしか、私が志望する大学に合格したときも、至福と思える時間はその程度だったと記憶しています。

しかたがないので、誰もがまたあの「将来の喜びのための肥やし」を過ごすいまに戻って行きます。我慢、ストイック、禁欲、そして「恐れや不安」の時間です。しかも、「次のゴールは前より高くなくてはいけない」という条件のもとにです。

実際に私は、このような圧迫と解放を繰り返しながら、心や身体を壊していくケースをいくつも目撃しました。才能のあるスポーツ選手が、自分を追い込みすぎて故障し、若くして引退に追い込まれたという話もこの問題に関連しているように思います。

もちろん私も、強靱な肉体と精神で、「未来報酬型のしあわせ」を実現し続けているという人を否定するつもりはまったくありません。むしろ尊敬の念を抱いているくらいです。

けれども、もしあなたが、「もうキツい……」という苦しい思いを抱きながら、一向にしあわせを感じられないとしたら、思い切ってこのやり方を疑ってみる価値はあります。

本当に、上昇志向や成長志向、

「ダメな現状を改善し続けるのが人生なのか?」

を再考してみるのです。

そしてもう一度、

「本当に恐れや不安、危機感をもたなければ、自分はサボってしまうのか?」

を真摯に検討してください。

バックナンバー「いまここに失った自信を取り戻しに行く」で書いたように、「恐れや不安」のない「平安な心」をもつ私たちは最強です。けっして自堕落な生活を選びたくなるようなモードではありません。

では、どんなときに私たちはサボりたくなるのでしょうか。

「将来の喜びを得ようと自分を追い込み、危機感や不安に押しつぶされたとき」

だと私は考えます。

それはすなわち、「未来報酬型のしあわせ」を追究するのに失敗したときです。怠けている自分に罪悪感を抱くのも、サボっているあいだ中、得体のしれない不安が消えないのもこのためです。追い込んだけどもそのあとが続かなかったのです。

あなたにはもうひとつ別の道があります。シンプルにこう考えてください。

「恐れや不安のない私たちは性善説で生きられる」

これが「危機感」に対する私の答えです。

Photo by Satoshi Otsuka.