「共感」は「ひとつ意識」を実感するヒント

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』は次のような問いかけによって、「私たちが働くこの世界についての認識」を疑うことから始まります。

「もしかしたら、自分はこの世界の姿を見誤っているんじゃないか?」

そして私は「ご機嫌な仕事」を実現するための土台として、「ひとつ意識」をもって生きることを提案しました。それは、

「自分と他の人々、それを取り囲む森羅万象はもともとひとつである」

という、常識とはかなりかけ離れた世界の捉え方です。

今日は、この「ひとつ意識」を実感するためのヒントになる話を書いてみようと思います。

私たちはふだん、「全身の皮膚を境界線として、身体の内側が自分である」と考えて暮らしています。拙著ではこれを「バラバラ意識」と呼びました。

さらに、このブログではそれを「自我に支配されている状態」と表現しています。詳しくは、バックナンバー「身体は意識の創造を外の世界に表現する道具」や「自分をもろくて儚い存在とみなす自我の正体」などを読んでみてください。

「バラバラ意識」や「自我」は、身体という物理的な制限によって自分と他の人々が「互いに分離している」と感じる意識です。反対に「ひとつ意識」をもった私たちは、身体の境界線を超えて自他が「互いにつながっている」と感じています。

つまりどんな形であれ、自分と他の人々が「つながる」場面を見つければみつけるほど、私たちは「ひとつ意識」をリアルなものにできるということになります。

拙著ではその一例として、東日本大震災を挙げました。私たちはときに、危機的状況に置かれた他人のために、利害や損得抜きで行動したくなることがあります。これもまた「つながり」を感じられる瞬間のひとつであるはずです。

では「物語」はどうでしょう。私たちは小説やマンガ、映画、ドラマ、アニメ、芝居などを読んだり観たりしながら、まるで自分がそれらの物語に登場する人物であるかのように心を動かします。

それがあまりにあたりまえすぎて、なぜそんなことが起こり得るのかなど気にすることはありませんが、よくよく考えてみると、これは実に不思議なことなのです。

次のような問いに整理してみると、そこにはたしかに大きな謎があることがわかります。

「なぜ、自分とは異なる存在である他の人が創造したストーリーを読んで、私たちは感動したり、怒りや悔しさを覚えたり、涙を流したりできるのか?」

実は物語だけでなく、同じようなことが起こるケースは他にも数多くあります。

たとえば、スポーツ観戦はどうでしょう。フィールドで競技している人は、「バラバラ意識」によれば自分とは完全に分離した存在です。そんな選手たちの一挙手一投足に、なぜ私たちは本気で歓喜したり、失望したりできるのでしょうか。

物語よりも情報量の少ない詩や、さらに文字数が限られた俳句も同様です。

「古池や蛙飛び込む水の音」

わずか17音のこの句から、閑寂や幽玄、静と動など、作者が見たであろう風景や情緒を感じ取れてしまうのはなぜでしょうか。

言葉のない音楽まで行くとさらに謎は深まります。何百年も前の異国で創られたクラシックの楽曲を聴いて私たちはいまでも心を震わせます。ジャズのインプロビゼーションから演奏者の感情まで伝わってくるとしたら、私たちはいったい何を感じ取っているのでしょうか。

ほかにも、絵画、現代美術、彫刻、仏像、建築物など挙げればキリがありません。そして、そのすべてから喚起される感動は、身体を超えた何らかの「つながり」なしには起こりえないものばかりです。

その正体はおそらく、

「共感」

という言葉で表されるような「何か」ではないかと私は考えます。「共感」を生じさせる自他の共通点が「ひとつ」である証しといってもいいでしょう。

結局のところ、「バラバラ意識」と「ひとつ意識」のどちらを現実と捉えたとしても、私たちは24時間365日、一方の意識に留まっていることはできません。

先の震災の話のように、徹底的に他人と分離して生きると決めたとしても、困っている人を見ればひと肌脱いでしまうのが私たちでもあります。

重要なのは、

「いま自分はどちらにいるのか?」

を知ろうとする習慣をつけることです。

たとえばそれは、他の誰かに「共感」したときに、「あ、いま私はこの人の、自分と同じ何かに反応している」と、ふだんとは違った感性で「つながり」を感じ取ることなのかもしれません。