自分をもろくて儚い存在とみなす自我の正体

先週に投稿した「身体は意識の創造を外の世界に表現する道具」で書いたように、「自我」は、本来、私たちがもっていたはずの「ひとつ意識」を「バラバラ意識」へと変えてしまう「ノイズ」のようなものです。

そしてそれは、「全身の皮膚を境界線として、身体の内側だけが自分である」と捉えること、すなわち自分自身を、

「モノと同じように他人や世界から切り離された存在」

と認識することによって、私たちの中に生まれます。

今日は、そんな「自我」が私たちに何をもたらすのかについて考えてみようと思います。

まず、「自我」をもつことによって私たちが感じるのは、「絶対的な孤独」です。夫婦や恋人、親友など、どれだけ親しい関係であっても、「モノ」と同じように他人から切り離された私たちが、互いを真に理解することなどあり得ないと考えるからです。

これによって私たちは、

「結局のところ、最後に信じられるのは自分しかいない。すべては自分自身でなんとかするしかない」

と信じるようになります。

目に映る世界は当然、過酷極まりないものです。そこで、私たちは「自我」の命ずるある戦略に則ってこの厳しい世界を生き抜こうとします。それは、

「自分とは完全に分離した他人とはいつでも利害が対立する。だから、自分のまわりの小さな世界をひとつずつ征服していこう」

というものです。

たとえば、私たちは心の奥底で「他人に勝ちたい」「他人よりも特別な存在でありたい」と望んでいます。これもまた、「自我」による「世界征服」の一環です。

当然、「相手の得は自分の損。自分の損は相手の得」と考える「自我」 は、「早く手に入れないと誰かに取られてしまうぞ」と私たちにささやきます。

ただ、私たちは基本的になまけ者です。ただ「早くしろ!」と言われたくらいでは重い腰を上げようとはしません。そこで「自我」は、極めて巧妙なやり方によって、私たちが急がずにはいられない状況を作り出します。

それは、

「その身体だけがオマエだ。それはいつか消えてなくなるんだぞ。だから時間がないんだよ!」

という絶望的なささやきです。

こうして私たちは、明確な根拠を考えることなく、無条件に「人生は短い」と思い込むようになります。もし、あなたが何かをするたびに、

「一刻も早く!」

と思わずにはいられないとしたら、それはまさに「自我」 のやり口が功を奏しているということです。

ただ、この「オマエはいつか消えてなくなる存在だから、急いで利を取りに行かなければならない」と脅す「自我」の戦略には大きな弊害が伴います。それは、

「自分自身を、心も身体も傷つきやすくもろい存在とみなしてしまう」

ことです。

そう、私たちは「モノ」と同じように、ちょっとしたアクシデントで朽ち果てて消滅してしまう儚い存在です。

他人のひと言によって立ち直れないほど傷ついてしまう自分、ひとつの失敗によって根本的な自信を失ってしまう自分、気候や環境の変化によって体調を崩してしまう自分、しっかりとメインテナンスをしていないと弱ってしまう自分。

これが、「自我」によって必然的に私たちがもつことになる自分自身のイメージなのです。

そこで「自我」は、そんなもろくて弱い私たちが生きていくために、新たな対策、

「どんなときでも防御を怠るな!」

を指示してきます。

具体的には、これから起こるであろう危険やリスクをすべて洗い出し、どんなときでも「最悪の事態はすべて把握している」という状況を作らせようとします。

「考えろ! 想像しろ! 危険やリスクをすべて洗い出せ!」

私たちが過去や未来を思い悩んだり、「意味づけ」をしたりすることをやめられない最大の原因がここにあります。

そして、実際に誰かが自分を攻撃したように感じたなら、備えておいた防御を発動することを瞬時に選択します。ここでのポリシーは「攻撃は最大の防御なり!」です。反射的に怒りや不機嫌さを繰り出し、自分が受けた分を超える苦痛を相手に与えようとします。

こうして私たちは日々、「恐れや不安」を抱えながら、相手を攻撃することによってその思いをさらに増幅するという無限ループに入っていくのです。

最後に、そんな「自我」は、次のような大きな自己矛盾を抱えています。

「本当は自分が大嫌い」

どれだけ苦労して「小さな世界」を征服しても、「特別な存在」として地位や名声を獲得したとしても、この世の利や得を洗いざらい手に入れたとしても、「自我」が棲む場所である私たちは、いつか必ず朽ちて消滅してしまいます。

「自我」はこの事実がどうにも我慢なりません。当然、ちっぽけでか弱くて儚い存在としての自分を心の底では強く憎むようになるのです。

もし、あなたが「どうしてもいまの自分が好きになれない」と感じているとしたら、このような「自我」の思いに影響されているということです。

身体は意識の創造を外の世界に表現する道具」で書いたように、私たちが「自我」という言葉から想像する「自分勝手」「わがまま」「出たがり屋」などの性格は、「自我」をもつことによってもたらされる結果の一部に過ぎません。

その本質は、「身体が自分の本体である」という認識から始まり、これまで見てきたような支離滅裂で矛盾だらけの生き方を選択することにあります。

では、どうすれば私たちは「自我」の力を弱めて本来の自分、「ひとつ意識」をもつ自分に戻れるのでしょうか。

まずは、今話で書いたような「自我」の戦略やささやきが、たしかにあなたに影響を与えているという事実を自覚することです。

もちろん、すべては単なる幻想に過ぎません。それを知るだけで、「自我」のコントロールからいく分かは距離を置くことができるようになります。

その先の具体的な方法は次話以降で書いていこうと思います。

Photo by Satoshi Otsuka.