美しい調和は受けの姿勢によって奏でられる

バックナンバー「令和の時代は優雅な調和へと向かう」で書いたように、私たちを取り囲む自然界や、この宇宙全体には美しい「調和」を感じ取れます。

このような話題になると、「そうそう、調和していないのは人間だけだ」などと、つい話が自虐的な方向に行きがちですが、私は、われわれ人間もそんな言われようをするほどダメなわけではなく、かなりいい線までいっていると思っています。

ただ、私たちの中には「調和」と相容れない、ある行動理念のようなものがあって、それが美しいハーモニーにとっての「ノイズ」になっているだけなのです。

その行動理念とは、

「何事も能動的に自主的に、自分で考え、自分で決めなければならない」

というものです。

ハーモニーと言えば、真っ先に思い浮かべるのが「合奏」です。実際に、私はこれまでの人生で、2人で奏でるデュオから、4、5人のバンド、40人編成のオーケストラまで、さまざまなタイプの合奏を経験してきました。

人数の多少に関わらず、合奏をするためには大きく分けて2つのスキルが必要です。ひとつはその曲を演奏する能力、そしてもうひとつが、他人の演奏をよく聴いて、それに自分の演奏を同期させる能力です。

ほかでもない、美しく調和するために私たちに欠けているのは、後者の「他を受けて返す」という姿勢ではないでしょうか。

たとえば、ヘビーと思える交渉をするときや、あまり人の意見を聞かなそうな人と対談する際に、私たちは事前にシナリオのようなものを考えがちです。「まずはこう切り出して、こう返されたらこのように対応する……」などのシミュレーションを頭の中で何度も繰り返すことがあります。

では、実際の会話は、いつでも私たちが想定したように進んで行ってくれるでしょうか。もちろん、答えは「NO!」です。十中八九、そのような予想はひっくり返り、崩れてしまった筋書きに冷や汗をかくのが常です。

以前、ある女優さんに大根役者と一流の役者の違いを聞いたことがあります。彼女によれば、

「与えられたセリフをそのまましゃべるのが大根。まず、自分の中に相手の言葉を受け取り、それによって起こった感情をセリフに込めるのが一流」

なのだそうです。要は、ひとりで壁にボールをぶつけているのか、相手とキャッチボールをしているのかの違いです。

こうしてみると、演技もまさに合奏と同じであることがわかります。どちらの世界でも、ハーモニーのよしあしを決めるのは「聴くこと」、すなわち「受けること」です。

「受けの姿勢こそが美しい調和をもたらす」

先に挙げた私たちの行動理念、「何事も能動的に自主的に、自分で考え、自分で決めなければならない」の真逆といってもいいでしょう。

ではここで、合奏や演技から得られるヒントを、日々の生活の中で行える具体的な行動に翻訳してみます。

「そう来たか! じゃあ、こう受けよう!」

たったこれだけです。

「そう来たか!」とは、何が来ようと「そのまま受け入れる」ということです。そして、「受け入れる」とは「判断しない」ことにほかなりません。

たとえば、自分が関わるプロジェクトに問題が起こったときも、困ったとか不運だとかの判断をせずに「そう来たか!」と受け入れ、そのときあなたにできる最善の対処を素直に返せばいいだけです。

誰かと話すときも、いきなり自分の主張をぶつけるのではなく、相手の言い分を最後のさいごまで判断せずに聞き尽くして、受け尽くして、先の一流の役者のように、それを汲み取った自分からどんな言葉が出てくるのかを楽しみに待てばいいだけです。

「受ける」前に「こうしたい!」と未来を決めてしまうから不都合が起こったように感じるのです。徹底的に「受けの姿勢」を貫くことで、他人の言動や望ましくないように見える出来事にも大きく動じない自分が生まれます。

つまり、「そう来たか!」は、自分の思いどおりにならない状況にダダをこねたくなる子どものような自分を、どっしり構えて何事にも対処できる大人に変えてくれる魔法の言葉でもあるということです。

そして、いつでもそんな大人であることが、「美しい調和」をもたらすためにもっとも重要な修正点だと私は考えます。