人生からいっさいの攻撃を手放すという選択

そういえば最近、「スパルタ教育」という言葉をあまり聞かなくなりました。私が子どものころは、「スポ根」(スポーツ根性もの)と呼ばれるジャンルのマンガが大流行したせいもあり、どちらかというと、ポジティブな意味で使われていたように思います。

その解釈は人によって異なるでしょうが、ときには体罰も辞さないほうど厳しく教育したほうが、強くたくましく、少々のことではへこたれない良質の人物が育つという発想だと私は捉えています。

昭和37年生まれの私は、もちろん、小中高の学校生活を通して、さまざまなスパルタ教育を体験してきました。教師の暴力が日常茶飯事だった時代です。正確な数は覚えていませんが、授業や部活の中で、おそらく年間に100発くらいは殴られていたはずです。

想像ではなく、この身体でそれを受けてきた経験から「スパルタ教育」の本質を解き明かすとするなら、それは、

「さまざまな攻撃によって、恐怖を植えつける」

手法だと思います。

教える側が「やってほしくないこと」を行った生徒に、「それをすると、こんなに怖いめに遭うんだぞ!」というある種の因果関係を、繰り返し、繰り返し叩き込むわけです。

ではなぜ、このやり方が今日ではすっかり下火になってしまったのでしょうか。その理由は、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』で書いたように、

「この世界が少しずつだけれども、しあわせな方向に変化している」

からだと私は考えます。

やや漠然とした表現なので、そこに含まれるさまざまな変化をもっと具体的に表すとすれば、

「そもそも、私たちは、恐怖によって教育されなければ、何かを理解できないような、卑小な存在ではない!」
「そもそも、攻撃という手段には、あらゆる問題を解決する力などない!」

という事実に、私たち自身が気づき始めたということです。

だからこそいま、スポーツをはじめとするさまざまな業界で、パワハラと呼ばれる指導法が問題になっているのだと思います。

ただ、そうはいっても、私たちの日常からすべての「攻撃」が消え去ったわけではありません。誰もが日々、他の人から、怒りをぶつける、暴言を吐く、無視をする、陰で悪口を言うなどの「攻撃」を受けているし、自らも同じことを誰かに対して行っています。

もし、私たちが「相手を嫌な思いにさせる」「相手に恐怖を与える」という、目的としては暴力とまったく変わらないこれらの行為を正当化するのなら、スパルタ教育もパワハラも、ときには「やむなし!」ということになってしまうのです。

そこで今日は、私たちがいまだに「場合によっては有効」と信じて止まない、「攻撃」というイリュージョンを疑ってみようと思います。

まず、どのようなときに、私たちは「相手を攻撃する!」という選択を下すのかを確認しておきましょう。ほぼ例外なく、次の2つの条件が揃ったときです。

① 相手の言動に対して、何らかの「恐れや不安」を抱いた。
② その相手から自分を守らなくてはならないと感じた。

たとえば、あなたが誰かから「失礼だ!」と思う扱いを受けたとします。

あなたは瞬時に

「このままでは、自分が見下されてしまう」
「このままでは、不快な思いを抱き続けなければならない」
「このままでは、やられっぱなしで不公平な人生になってしまう」

などの思いを抱くはずです。

意識して見極めようとしなければ、ただの「嫌な気持ち」や「嫌な感情」に見えますが、その正体は拙著やこのブログで書いてきた「恐れや不安」です。

試しに、その「失礼だ!」と思う同じ言動を、年端もいかない子どもから受けた場面を想像してみてください。万が一にも「この子に見下されている」「それでは不公平だ」などと感じることはないはずです。

ほかでもない、その理由は、幼い子に対してあなたが「恐れや不安」を感じないからです。あらゆる対人関係で、ザワついたり負の感情を抱いたりしたときは、間違いなく、相手に対する「恐れや不安」が生じているのです。

ほんのわずかでも、相手に「恐れや不安」を抱いたあなたは、反射的に「自分の身を守らなければ!」と感じ、防御の態勢をとろうとします。

そして、その具体的な手段はいつでも同じです。

「攻撃は最大の防御なり!」

の言葉の通り、怒りや不機嫌さをぶつけること、すなわち何らかの「攻撃」を相手に繰り出すことです。

残念ながら、この防御のメカニズムが有効だと信じているあいだは、私たちの人生から、攻撃の被害者になったり、加害者になったりすることはなくなりません。

ここで重要なのは、次の2点について真摯に自問してみることです。

①「私は攻撃によって、本当に自分の身を守れているのか?」
②「私は攻撃によって、本当は何を得て、何を失っているのか?」

まず、①の答えは確実に「NO!」です。

ある人があなたに失礼なことをしました。あなたはそれによって「恐れや不安」を抱き、自分を守るために相手を攻撃します。そこから何が起こるかは、先の「攻撃を繰り出す2つの条件」を見れば明らかなはずです。

そう、あなたの攻撃を受けた相手は、同じようにあなたに対して「恐れや不安」を感じます。当然、相手も自分を守るために、あなたを攻撃してくるでしょう。

ここでは、どちらがそもそもの原因を作ったかはまったく関係ありません。ただ、

「恐れや不安のキャッチボール」

が、ほぼ無限に行われるだけです。

そして、このボールはまるで雪だるまのように、「受けては投げて」を繰り返すたびに大きくなっていきます。その結末は、争闘、戦争、修羅場といったところでしょうか。

やればやるほど「恐れや不安」が増大していくこの方法で、自分の身を守れているなどと考えるのは、イリュージョン以外の何ものでもないと思うのですが、いかがでしょう。

②の得るものと失うものも、精緻に見ていく必要があります。まずはわかりやすい「失うもの」からいきましょう。

あなたは、先のような修羅場の中で、相手と怒りの応戦をしながら、

「膨大なエネルギーを失っている」

はずです。

しかも多くの場合、争いを通じて沸き上がった「嫌な思い」は、かなり長いこと残り続けます。自宅に戻っても、「あそこでこう言い返せばよかった!」などの、不毛なシミュレーションを頭の中から消すことはできません。

そのたびに、悔しさや歯がゆさがフラッシュバックして、あなたは「何も手に着かない」という最悪の状態に陥るはずです。もちろんこの間も、妄想をするたびに、多くのエネルギーが失われていくのです。

では、その代わりに「得るもの」とは何でしょうか。

多くの人にとっては受け入れがたい話だと思いますが、結論として私は、誰かを攻撃することで得られるものなど何もないと確信しています。百歩譲って、無理やりひねり出したとしても、「嫌な思いを紛らわせる」ことくらいしか浮かびません。

ただ、職場でも家庭でも、その他の場面でも、ふだんの生活の中で「相手を完膚なきまでに打ち負かす」などということは、まず起こりません。

奇跡的に完勝したとしても、「赦すのは難しいというイリュージョンを疑う」で書いたように、あなたは、自分の攻撃によって打ちひしがれた相手を見ながら、心から満足できるような、冷酷で残酷な存在ではありません。

つまり、「攻撃によって嫌な思いが完全になくなる」という考えもまた、大いなるイリュージョンなのです。

本来の目的である「自分の身を守る」効力もなく、得るものもないという事実に気づけば、あなたの中から誰かを攻撃する理由も消え去るはずです。

このことを真に受け入れたとき、私たちは、

「何があっても、人生からいっさいの攻撃を手放す」

という選択ができるようになります。

それはすなわち、

「相手の望ましくない言動を、自分への攻撃とみなさない」

という選択でもあります。

先の「失礼だ!」と思う扱いも、攻撃ではなく「修正が必要な間違った行動」と捉えるということです。

あとは、攻撃という名の怒りの矛を収めて、できれば愛をもって静かに、

「それはやめてください」

と修正に向けた最初のひと言を発すればいいだけです。

あなた自身が攻撃を手放し、相手の言動も攻撃とみなさなければ、あなたは、「攻撃」の2文字が存在しない世界を創造できます。それは同時に、他の人から自分を防御する必要さえない世界に生きることを意味するのです。

ぜひ、考えてみてください。冒頭にも書きましたが、これ以上の、

「しあわせな方向への変化」

があるでしょうか。

「そんなまどろっこしいことはやってられない!」と言いたいとしたら、あなたはおそらく「時短」や「効率」のことを気にしているのだと思います。

「なんだ! その失礼な態度は!」

と一喝するほうが、問題が手っ取り早く解決すると信じているのでしょう。

たしかに、相手を攻撃するという手段を封印して、ともに修正しようとすれば、多くの時間と労力を費やすことになります。

ほかでもない、そこを節約しようという「時短」の発想から、「攻撃によって恐怖を植えつける」という、スパルタ教育やパワハラが生まれてきたのではないでしょうか。

その真逆にある、修正のためになら相手が誰であれ、自分の時間と労力を惜しみなく差し出せる覚悟を、私は「愛に基づく選択」と呼びたいと思います。