愛は行動ではなく「愛である」というベース

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』のエピローグに、突然、

「愛に基づく選択」

という記述が登場します。本文には一度も「愛」という単語は出てこないにも関わらずです。しかも、それに続けて私はこう書いています。

「愛とは何か? について多くを語る必要はありません。私たちは愛がどのようなものかをいつでも完璧に知っています」

つまり、私はこの本の中で、いっさいの説明なしに「愛に基づく選択」をしていれば間違うことはないと言っているわけです。

その理由は、ここでいう「愛」について、言葉で語れば語るほど実体から遠のいていき、読む人の心に愛ではない別のイメージを、数多く想起させてしまうからです。目に見えないものは、言語化と相性がわるいといっていもいいでしょう。

いまでもこのことについての私の考えは変わっていません。ただ、拙著を読んでいただいた方から、「で、結局のところ愛って何なんですかね?」と質問されることが少なくないのも事実です。

そこで今日は、拙著の中で同じく言語化できない「いまここ」を、「未来や過去を思考することに囚われていない状態」と反対側から描写したように、「愛」とは違うものを見ていきながら、「愛」の本質に近づいてみようと思います。

まず、一緒にこの問いについて考えてみましょう。

「愛は行うものか?」

漠然としていて、何やら禅問答のようですが、簡単に言えば「愛」という行為を、私たちは意識的に行うことができるかということです。

もちろん、日常会話の中で、多くの人が「私は○○を愛している!」「もっと私を愛してほしい!」などの文脈を使っています。だとすれば、深く考えるまでもなく「行える」し、実際に「行っている」ことになります。

では、「これを愛してみてください」と言われたとして、あなたは、「走る」「投げる」「食べる」などの他の動詞と同じように、何を行えばいいかを、明確かつ即座に頭に描けるでしょうか。

これに関しては、私もまったく自信がありません。たとえば、「愛する」が「好む」と同義語だとすれば楽勝ですが、それでは圧倒的に何かが足りない気がします。「愛」を行動として考えようとすればするほど、本質から離れていくような気がしてならないのです。

そこで私は、「愛」を「行うもの」ではなく、「そうであるもの」と捉えることにしました。英語で言うならば「Doing」ではなく「Being」です。

「私は愛である」(I’m love)

ということです。

「愛」を、その人の土台や基礎、ベースを表す概念とするわけです。これだけで、「愛」にまつわるさまざまなことがシンプルでわかりやすくになります。

「愛である人が行うことは、すべて愛の行動になる」

「愛とは何か?」を考えるとき、私はいつもこのことを前提にしています。拙著で「愛に基づく選択」と書いたのもこのためです。「愛の行動」を模索するのではなく、「愛をベースに置いて選ぶ」だけでいいのです。

このことを念頭に、私たちのまわりでよく見かける、次のような事柄が本当に「愛に基づいているのか?」を検証してみましょう。

最初の話題は「恋愛」です。多くの場合、誰かを熱烈に好きになることから恋愛は始まります。ただ、その「好き!」という気持ちは同時に、私たちに快くない感情ももたらします。

たとえば、恋人と長いあいだ会えないとき、私たちは「寂しい!」と感じます。その思いが限界を超えると、「どうして会ってくれないんだ!」と相手を責めてしまうこともあります。

あるいは、その「好き!」という気持ちが一方的な場合は、ストーカーと呼ばれるような、相手を困らせる行為に発展することもあります。当然、それをするほうも、されるほうも苦痛を覚えずにはいられません。

また、「愛憎」という言葉があるように、場合によっては「好きだからこそ許せない」という不思議な感覚をもつことがあります。こちらも同様に、何らかの嫌な感情を抱くことになります。

次に、親子の関係でよく見られる「子どもが心配だから、うるさく言いたくなる」という行為はどうでしょう。

親の側はもちろん、「自分は子どもを愛している」と自負しています。けれども、子どもの側はたいてい、「頼むから放っておいてほしい!」と感じながら、面倒くさいとかウザいとかの、とても「愛」を受けたとは思えない反応をします。

最後に、こんな例もあります。私は以前、とある知人から次のような相談を受けました。

「私の親友が会社でとても理不尽な扱いを受けました。自分のことなら、意味づけを手放すなどしてグッドバイブスでいられるのですが、自分の大切な人がひどいめに遭っているのは、どうにも許すことができません」

これも、親友を思いやる「愛」があればこその憤りに見えます。「人の痛みを自分のこととして感じられる」という意味では、まさに「ひとつ意識」のような感じもします。

だとしたら、どうして彼はそれによって、苦悩を背負ってしまったのでしょうか。あるいは、そもそも「愛」とは、ときに痛みや苦しみが伴うものなのでしょうか。

さて、これまで3つのケースを見てきました。実はこれ、すべて「愛の反対側を描写するとどうなるか?」の結論なのです。

恋愛でいえば、「好きな人と会えなくて寂しい」と感じるとき、私たちは何らかの「恐れや不安」を抱いています。いうまでもなく、自分の思いを受け止めてくれない相手にストーカー行為をする人も同じです。

親子の場合はどうでしょう。まず、親には間違いなく「この子が不幸になったらどうしよう」という子どもの人生に対する不安があります。

でもそれだけではありません。さらに心の深層を探っていくと、「私の教育や方針のせいで、この子が不幸になったらどうしよう」という、自分自身に対する不安も存在しているはずです。

最後の親友の話もまったく同様です。彼の中に相手を想う気持ちがあることは事実ですが、同時に、「親友を窮地から救えなかったらどうしよう」「どうして世の中はこんなに理不尽なのか」などの「恐れや不安」もあったのではないでしょうか。

しかも彼は、「自分のことならまだしも、大切な人が苦しむのは見ていられない!」と、せっかく得たはずのグッドバイブスを放棄して、「許さない!」という「バラバラ意識」の攻撃を選択しようとまでしています。

「愛の行為」であったはずなのに、ここまでの話に登場する当事者とその相手に、なぜかしあわせではない負の感情がもたらされる理由はほかでもない、彼らの中の「恐れや不安」にあったということです。

そしてこれこそが、「私は愛である」がどのような状態かを知る大きな手がかりでもあるのです。

「I’m love. とは、いっさいの恐れや不安のない状態」

ぜひ、3つの例題に出てくる人々が「恐れや不安」を抱いていなかったら、彼らの行動や感情がどのように変わるかをイメージしてみてください。そこで現れたもうひとつのストーリーが「愛に基づく選択」です。

そういえば、グッドバイブスの定義は「いい感じの思いを乗せた波」でした。そして、「いい感じ」とは「恐れや不安」のない状態です。

さらに、バックナンバー「グッドバイブスとひとつ意識の関係」で書いたように、私は、子育ての経験をもつ人たちをつかまえては、手当たり次第に、「生まれたばかりのあなたのお子さんはグッドバイブスでしたか?」と質問しています。

これまでひとりの例外もなく、

「はい、間違いなくグッドバイブスでした」

と答えてくれました。だとすると、こんな図式ができあがることになります。

「生まれた瞬間のあなた=グッドバイブス=恐れや不安のない状態=Love!」

なんのことはない、あなたも私も「私は愛である」存在として生まれてきたということです。だから、拙著では「私たちは愛がどのようなものかをいつでも完璧に知っています」と書くに留めておいたのです。

この文章にはさらに続きがあります。

「恐れや不安をもち続ける日常の中で、すっかり忘れたような気がしているだけ!」

だからといって、「愛である状態」を思い出そうとしてもうまくいきません。「いまここ」と同じように、ただその反対を目指せばいいだけです。

「あなたが愛である存在でいたいなら、恐れや不安を手放す」

これさえできれば、私たちは一瞬にして「I’m love」に戻れるのです。

「いやいや、愛なんて信じられないよ!」と言いたくなるのも、「愛」を偽善やまやかしと思いたくなる気持ちも、「裏切られたくない!」という「恐れや不安」から生まれているのかもしれません。