「人の本質を信じられるか?」に答えてみる

今日は「人の本質を信じられるか?」について考えてみようと思います。なぜならば、この問いにどう答えるかで、「ひとつ意識」や「グッドバイブス」や「完全無欠のしあわせ」が、ただの夢物語なのか、それとも実現できるものなのかが決まるからです。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』の中に次のような一節があります。

「私たち一人ひとりの価値は完全に同じである」

その意味は書いてあるとおりです。この世界には、見栄えや個性や考え方の違う76億の人々が暮らしています。はたしている役割も、経済力も、知名度も、影響力も千差万別です。

けれども、それぞれの価値には序列や優劣などいっさいなく、あなたも私も、他の人々もまったく同じであるということです。

ただ、このような話を聞くと、どうしても私たちの頭の中には次のような大きな疑問が沸き上がってきます。

「いや、でも、この世の中には生まれながらの極悪人や、性根の腐りきった人間がいるように思える。そのような人たちが自分と同じ価値をもつとは考えにくい」

たしかに、私たちと同じ「ヒト」が起こした、目を覆いたくなる悲惨な事件が毎日のように報道されています。そこまで極端なケースを想定しなくても、身近な職場をサッと眺めてみれば、意地悪な人や冷酷な人、他人を不快にさせてばかりいる人は簡単に見つかります。

現実として、それらの人々を目の当たりにしながら、

「人の本質を信じられるか?」

という問いに「YES!」と即答するのは、あまりに脳天気なようにも思えます。

しかも、私たちはこのことについて真偽を証明する手段をもっていません。私たちの価値は完全に等しいのか、それともIQのように個人差があるのか。人の本質はグッドバイブスなのか、それとも極悪なのか。残念ながら真相は永遠に闇の中です。

だとしたら、あとは各自の意志と選択に委ねるだけです。

「あなたが、自分のまわりの人々をどう見たいか?」

の意志によって、あなたの目にする現実を決めるしかないのです。「どちらの世界に住みたいか?」をあなた自身が選ぶといってもいいでしょう。

私はいつも、自分の中に迷いが生じてこの岐路に立たされたとき、あえて「価値に序列や優劣があり、生まれながらの極悪人がいる世界」をイメージするようにしています。それはかなり過酷で殺伐とした景色です。

まず、私たちは2つの人種に分けられることになります。ひとつはグッドバイブスな集団、もうひとつが生来の極悪人の集団です。

もちろん、両者が共存することはありえません。グッドバイブス派にとって極悪人派は、いつでも自分たちの平和を脅かす危険な存在だからです。当然、グッドバイブス派は極悪人派をどこかに隔離するか、互いのあいだに強固な壁を築くかするでしょう。

ところが、長い歴史を見てもわかるように、隔離や壁によって平和が守られた例はひとつもありません。どれだけ策略を巡らしたとしても、グッドバイブス派は永遠に恐怖を抱えたまま生きることになるのです。

それだけでなく、このような世界では、私たちを大いに悩ませる難問が2つ待ち受けています。まずは、

「自分はグッドバイブス派なのか、それとも極悪派なのか?」

をどうやって見極めるかという問題です。

犯罪歴の有無など、わかりやすい基準を設けることはできますが、たとえば、私のまわりにいる意地悪な人や冷酷な人はどちらに入るのでしょうか。やはり極悪人派でしょうか。

では、私がその人たちほどではないにしろ、似たような言動を行ってしまったとしたらどうでしょう。それでも強い確信をもって「いや、私は絶対にグッドバイブス派の人間だ!」と断言できるでしょうか。

もし、少しでも自信が揺らいだとしたら、私は自らの意志で、壁の向こうの極悪人が暮らす集落に移り住まなければなりません。実は、2つの集団のどちらに属するかは固定ではなく、自分の行動や考えたことによって、毎分、毎秒、変わっていくのです。

2つめの難問もかなりやっかいです。何しろ私たちの価値には序列や優劣があります。グッドバイブス派か極悪人派かに関わらず、私は一生、

「自分の価値ランキング」

に縛られて生きることになるわけです。

たとえ、努力によってその価値が変動するとしても、状況はたいして変わりません。今度は、「いま自分の国内ランキング、世界ランキングは何位なんだ?」と気に病みながら暮らすだけのことです。

ここまでを読んで、どこかで聞いた話のように思えないでしょうか。そう、拙著に登場した「バラバラ意識をもったリス」です。あのときもイメージを膨らませた先には、私たちのふだんの生活に似た光景がありました。

「価値に序列や優劣があり、生まれながらの極悪人がいる世界」もまったく同じです。実際に、私たちの多くが、自分や他の人々を「そのように見たい!」という意志をもって暮らしています。

当然、そのイメージは現実となり、うまくいかないことに翻弄されるたびに、

「私はダメな人間なんだろうか? それとも価値ある人間なんだろうか?」

という、答えの出ない問いに悩まされ続けることになります。

このような世界において、私たちは永遠に「絶対の自信」をもつことはできません。なぜならば、自分自身の意志によって、「価値の低い人間」や「生まれながらの極悪人」を創造してしまったからです。

その自ら創り出した幻影が、

「もしかしたら、私もそちら側の人間なのではないか?」

と思わせる限り、私たちは自分を信じることなどできないのです。

もしそうだとすれば、私にとって真偽の証明など取るに足らないことです。この救いのない状況から抜け出すためには、

「私たち一人ひとりの価値は完全に同じである!」

そして、

「私たちの本質はグッドバイブスである!」

と確信できる世界を私自身が創造するしかないからです。

「そのようにこの世界を見る!」という意志をもち、「そちらの世界に生きる!」という選択をするということです。

もちろん、何の根拠もなしにただそう盲信しているわけではありません。拙著に書いた「ビッグバンの原初の点からすべてが創られた」という話、そして、生まれたばかりの赤ん坊に誰もがグッドバイブスを感じるという事実が、いつでも私を勇気づけてくれます。

「でも実際にひどい人間はいるじゃないか!」と思うかもしれません。でも、私たちをおかしな行動に駆り立てる原因は、自分自身を振り返ってみればすぐにわかります。このブログにほぼ毎日のように登場する、

「恐れや不安」

です。

これさえ取り除くことができれば、私たちはいつでも「本来のグッドバイブスな自分」に戻ることができるのです。

だからこそ、「人の本質を信じる」ことを最大の拠り所として、結果としての言動はできるだけ看過し、原因である自分や他の人の「恐れや不安」に目を向けることが、「平安な心」そして「完全無欠のしあわせ」をもたらすと私は考えます。

Photo by Satoshi Otsuka.