「わかっていない」から興味と愛が生まれる

昨日の記事「何もわかっていない姿勢で問題に挑もう」で、問題に直面したときに確認してほしい4つの「わかっていない」ことを挙げました。

① 私は未来に何が起こるかをまったくわかっていない。
② 私はこの出来事が起こった本当の意味をまったくわかっていない。
③ 私はこの人が何を考えているかをまったくわかっていない。
④ 私は自分について本当のことは何もわかっていない。

今日はこのうちの③について、もう少し詳しく掘り下げてみようと思います。

私たちは子どものころから「他人の気持ちがわかる人間になりなさい」と教えられてきました。

たとえば、部下の気持ちを察してあげるのが「いい上司」、以心伝心でわかり合える妻と夫は「いい夫婦」、あうんの呼吸で動けるのが「いいチーム」などと評価されることもあります。

とくに恋人同士となると、この「相手の気持ちがわかるか?」が、互いの相性や、相手が運命の人かどうかを決定づけるほど重要視されることもあります。

実際に、あなたの身近にも「私は他人の心が手に取るようにわかる」と自負している人は少なくないはずです。もちろん、霊感や超能力の話ではありません。顔色や言葉の抑揚、目の動きなど、もう少し科学的な根拠をもとに、人の心を読むのが得意だと言っているのです。

何を隠そう私もかつては、自分は誰よりも読心術の才能があると信じていたひとりです。チームのマネージメントや企業のコンサル、誰かから受けた悩みの相談など、あらゆる分野でこの能力を駆使して問題を解決しようと考えていました。

けれども拙著の執筆をとおして、「意味づけ」や「未来の予測」などの妄想が、私たちの抱える苦悩の源泉であることを知ったとき、こんな疑問が湧き上がってきました。

「私たちは本当に他人の気持ちがわかるのか?」

自分の経験則からして、さすがに「まったくわからない」ということはないと思います。けれども、もし完璧に相手の心を察知できていないとしたら、読み外した部分はあくまで私たちの「想像」ということになってしまいます。

だとしたら、

「人の気持ちを読んだり察したりすることもまた、意味づけや未来の予測と同じく、私たちの心に恐れや不安を芽生えさせる妄想に過ぎないのではないか?」

そんな思いが胸をよぎったのです。

たとえば、あなたがメッセンジャーやチャットサービスを使って、誰かと企画を練っていたとします。「こういうのはどうだ?」「素晴らしい!」「ではこれはどうでしょう?」「おお、いいねぇ!」と、流れるようなやり取りが小1時間ほど続きます。

企画の骨子はほぼ固まり、話題は「製品名はどうしようか?」という最後の段階に入ります。あなたはそれなりに自信をもって「グッドバイブスではどうだろう?」とタイプしました。

ところが、10分待っても20分待っても相手からの返信が届きません。先ほどまでテンポよく進んでいたタイムラインが、水を打ったようにピタッと静まり返って微動だにしないのです。

さて、あなたはここで何を「察する」でしょう?

「もしかしてピンと来なかったかな?」「ちょっと失望させちゃったかな?」「もう少し考えてから出すべきだったかな?」「ダサいと思われたらどうしよう」、そんな思いが頭の中をグルグルと回っているのではないでしょうか。

場合によっては、相手の反応に先んじて「あ、イマイチだったねw」などと言いながら別案を送ってしまい、せっかくのいいアイデアをドブに捨てるような事態にもなりかねません。

そのとき、たまたま相手の携帯電話に重要な案件の着信があり、話が長引いていただけだとしてもです。

そういえば、以前、私が関わっていたあるプロジェクトに、「やる気をまったく表に出さない人」がいました。たいていは5分ほど遅刻して現れ、淡々と自分の仕事をこなし、終了時刻になったらそそくさと帰宅します。

何かの節目に打ち上げに誘っても、ほぼ確実に断られてしまいます。他のメンバーはそんな彼の姿を見てすっかり不安になり、「あの人はこのプロジェクトを辞めたいんじゃないですか?」などと言い出したりもします。

ある日、たまたま彼と同じ電車に乗り合わせた私は、「どう? 仕事は楽しい?」と聞いてみました。すると彼は少しだけ笑いながら「はい、いろいろ勉強になってます。このプロジェクトに入れて本当によかったです」と答えてくれました。

実際に、彼の仕事ぶりには何の問題もありませんでした。それどころか、他の誰よりも緻密で、ていねいな仕上がりのアウトプットを出し続けてくれていました。彼はただ、それをアピールしたり、みんなで盛り上がったりするのが苦手で、ちょっと時間にルーズなだけだったのです。

重要なのは、

「自分が決めたジャンルやパターンに安易に人を当てはめない」

ことです。

ぜひ私たちには、未知の何かを把握しようとするとき、ある種の「分類法」に則ってしまう習慣があることに注目してください。

幼稚園のときに教わった、何枚かの「いきものカード」を「動物」「鳥」「昆虫」「魚」などに分けるあのやり方です。

「すでに決まっている容れ物に仕分けできれば、それを把握したことになる」

そんな教育を受けてきたといってもいいでしょう。

けれども人生は「いきものカード」の分類ほど単純ではありません。ましてや人の気持ちとなれば、私たちの想像をはるかに超えるほど複雑怪奇です。

だとしたら、対象をパッと見て、瞬時に「ああ、そういう人ね」「ああ、このパターンね」と理解した気になる、一見、頭のよさそうなやり方は手放してしまうのが得策ではないでしょうか。

そもそも、人をジャンル分けで把握しようなどという発想に無理があります。夫婦しかり、恋人しかりです。「相手のことなど百も承知」と油断するから、あとで強烈なしっぺ返しをくらうことになるのです。

もう一度、しっかりと確認しておきましょう。

「私はこの人が何を考えているかをまったくわかっていない!」

このブログでも繰り返し書いてきたように、「わかっていない」ことを認めた瞬間に、あらためて相手をゼロから知る努力が必要になります。知ろうとすれば、否が応でも「興味」をもたざるを得なくなるのが私たちの性です。

そして、

「興味とはすなわち愛」

です。

ドライアイスのように冷え切った関係や、修復できないほどにこじれまくった関係の中で、あなたが「わかっている」ことを手放し、知ろうとすることで興味が湧き、欠片ほどでも愛が生まれたとしたらどうでしょう。

これこそが、複雑に見える人と人とのあいだの問題を溶かすことができる、唯一の方法だと私は考えます。

Photo by Satoshi Otsuka.