支離滅裂な現実を理路整然と想像している?

「とにかく支離滅裂で、訳のわからないナンセンスな物語を創ってください」と言われたとします。あなたはそれをすんなりと書き上げられるでしょうか。

おそらく数行も書かないうちに、はちゃめちゃなストーリーを頭に描くことがどれだけ難しいかに気づくはずです。なぜならばそれは、私たちの思考回路とまったくフィットしないからです。

今日はこの話をヒントに、「現実と私たちの想像の違い」について書いてみようと思います。

ある日の夕方、あなたが仕事から帰宅すると、家族のひとりが明らかにいつもと違う不機嫌さを醸し出していました。当然、あなたは「何があったんだろう? 自分のせいかな?」などと、その原因を「想像」し始めます。

「何か大事なことを忘れてやしないか? いや、今日は結婚記念日でも誕生日でもない。とすると、出かけるときに何かやらかしたか? いや、身に覚えはない。あ! ゴミを捨てるのを忘れた? うん、ありえるな。あと、約束していた部屋の掃除をやっていないことにそろそろキレたのかもしれない」

思い当たる節もなくはありませんが、やはり決め手に欠きます。おそるおそる、「元気ないね。どうしたの?」と聞いてみましたが、「べつに何も……」と言うだけで、あまり話もしたくない様子です。

もっと深刻な理由がありそうだと察したあなたは思考のギアをトップに入れます。

「最近、仕事で帰りが遅くなる日が多くて、あまり家族の相手をしていなかったかもしれない。食事のあともすぐにソファーでYouTubeを観て、そのままうたた寝してばかりだった。休日に出かける機会も少なくなっていたしなぁ。そういえば、観たい映画があると言ってたのを忘れていた」

この、

「ひとつのことについて考えれば考えるほど理路整然としてくる」

というのが、私たちの「想像」の特性です。

なぜかはわかりませんが、冒頭の課題に困ったように、私たちは極めて論理的にしか頭で何かを思い浮かべることができないのです。

誰かが怒っていれば、自分の記憶の中にある膨大な情報を一気に検索して、該当しそうな出来事をごく短時間で検証しながら、因果関係やそれが相手にもたらす影響なども精査したうえで、もっとも「ありそうな」物語を整然と創り出します。

では、今度は現実の世界を見てみましょう。あなた自身が帰宅後に機嫌を損ねていた場面をリアルに思い出してください。はたして原因は何だったでしょう。

「帰りの電車の中で気分を害するようなツイートを見てしまった」「帰りに寄ったコンビニの店員の態度が気に入らなかった」「途中の道で水たまりにハマった」「玄関の段差で右足の小指を強打した」「一日中、気圧が低くて不調になった」「なぜか家のドアを開けた瞬間に、生意気な部下の言葉が頭に浮かんだ」

こういったことがいくつか重なれば、それだけでいつもよりは不機嫌になるものです。もし、あなたが想像したように家族に原因があったとしても、その不満をロジカルで筋のとおった文章として相手に伝えるのは難しいはずです。

あなたの家族も、あなた自身も「よくわからないけど、何か機嫌がわるいんだよ!」というのが正直なところではないでしょうか。

そう、私たちの予想に反して、

「現実は極めて支離滅裂」

なのです。

結局のところ現実の中での私たちは、けっして理屈どおりに、整合性のとれた行動ばかりしているわけではありません。それどころか、原因や動機を真剣に考えて損をしたと思うほど気まぐれだということです。

当然、この図式は未来の「想像」にもあてはまります。

「Aという出来事が起こることでBがもたらされる。だからCの結果はまず避けらない。つまり、Aが起きないようにDの対策を施しておくべきなのだ」

まさに、どこにも穴など見あたらない完璧なシナリオです。

では、現実はどうでしょう。あるメンバーが風邪をひいて欠席するだけで、会議の結論は少なからず影響を受けます。タクシーを止めるのに5分かかるか10分かかるかで、恋の行方が大きく左右されることもあります。

雨が降ったり、小石が落ちていたりするだけ一変してしまうのが現実だとしたら、やはりそれは支離滅裂で、複雑怪奇なものだと言わざるをえません。

そんな「現実」に、私たちは理路整然とした「想像」で対処しようとするのです。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログで書いてきたように、「意味づけ」と「未来の予測」が「恐れや不安」を生み出すだけで、期待するほどの効力をもたない理由がここにあります。

相手の気持ちを察することができる。先を読んで行動できる。どちらも、優秀な人の条件のような感じがします。けれども本来、「支離滅裂で、訳のわからないナンセンスなもの」を察したり読んだりできるはずがないのです。

であるならば、理路整然と行うしかない「想像」を手放し、「いまここ」で起こることを凝視しながら、ラグビーボールのようにどちらに飛んでいくかわからない現実に反応するしかありません。

相手が人なら、自分に落ち度があったのか、それとも足の小指をぶつけただけなのかを、ひたすら聞き出すしかないということです。

つまり、「意味づけ」と「未来の予測」を手放すとは、

「支離滅裂な現実をひたすら知ろうとする謙虚な努力」

でもあるのです。

「知る」からこそ、自然と「恐れや不安」は薄らいでいくと私は考えます。