「何も知らない」状態で一日を観察し続ける

おかげさまで、昨年の11月から始めたこのブログも、今日で150話めとなりました。開始当初に決めた「平日の朝6時に毎日更新」も、なんとか継続できています。

途中というか、いまでもたびたび心が折れそうになりますが、FacebookやTwitterでの「今日の記事は響きました!」「気づきをありがとうございます!」といったコメントに救われてきました。

書いたというよりは、みなさんからのエールによって、まさに「書かされて」ここまでたどり着けた感じです。

そんな記念すべき今日は、「自分が目にする世界の姿を劇的に変える行動」について書いてみようと思います。私も日々その恩恵を実感し続け、数年前からもっとも大切にしている行動でもあります。

それは、

「よく観察する」

というものです。

言葉にすると拍子抜けしそうなくらいありふれた感じがしますが、これにいくつかの前提や条件を加えると、私たちが遭遇するあらゆる問題や悩みを解決してくれる、奇跡のような行動に変わります。

その前提としてまず、このブログでもたびたび登場する、

「私は本当のことを何も知らない」

という事実を受け入れてください。

そのうえで、同じく拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログの頻出ワードである「意味づけ」と「未来の予測」も手放します。

「本当のことを何も知らない」のであれば、そもそも、出来事や他の人の言動に意味をつけることも、未来を予測することもできません。無理やり知ろうとすることを潔くあきらめて、どちらも「やらない!」と決断します。

これで準備は整いました。何も知らず、意味もつけず、予測もしないあなたは当然、あらゆる物事に対して「どう接していいのかわからない」という、とても心細くてフワフワとした状況に置かれているはずです。

そこで、

「自分が目にするすべての事象を、あらためてつぶさに観察する」

ことが必要になるのです。

ここでいったん、小学生時代に戻ります。夏休みの自由研究で「何でもいいので、ひとつのものを40日間、観察して記録する」という課題を出されたとします。あなたは、観察する対象に何を選ぶでしょうか。

植物、昆虫、森林、河川、池、交通量、人並み、天気、星空、月など、人によって答えはさまざまです。でも、「なぜそれを選んだのか?」の理由は共通しているはずです。

「そのことに興味があったから」

ではないでしょうか。

そう、「あらためてつぶさに観察する」ことを始めた私たちは、否が応でも目に映るあらゆる事象に対して「興味」をもたざるを得なくなるのです。

ふだんのあなたは、「嫌いだ」「いなくなってほしい」と意味づけをした人々に、「興味」など微塵も感じていないはずです。けれども、その意味を手放して観察し始めた瞬間に、さすがに好意は抱かないまでも、自然と何らかの「興味」が沸いているのを感じるはずです。

そして、たとえば恋愛が相手への興味から始まるように、

「興味とは愛の選択をするための入り口」

でもあります。

「観察」は私たちが見る世界の姿を劇的に変えてくれます。なぜならば、それによって「興味」が生まれ、「興味」は「愛の選択」の扉を開いてくれるからです。これが、私が「観察」を奇跡の行動と呼ぶ理由なのです。

朝、目覚めた瞬間から「観察」を始めてください。前提と条件はすでに書いたように、「何も知らず、意味もつけず、予測もしない」です。

最初に目にするのはやはり家族でしょうか。でも、それは何十年も連れ添って「見慣れた人」ではありません。「本当のことは何も知らない」未知の人です。

「この人はいったい誰なんだ? どういう人なんだ?」

先入観をすべて捨て去り、ただただ、自然と抱いているはずの興味のままに観察してください。

家を出て駅までを歩く道のりも同様です。これまでなら、周囲の景色など気にすることなく、足早に、一直線に駅に向かっていたはずです。けれども、今日のあなたはこの道について何も知りません。

「ここはどこだ? 自分のまわりにあるのは何だ?」

目に映るもの、匂い、すれ違う人々など、何ひとつ見落とさずに観察し続けてください。

バスや電車の中も同じように観察で過ごし、いつもの職場に到着します。そこには昨日まであなたが「苦手だ」「ムカつく」と感じていた上司や同僚や部下がいるかもしれません。けれども、今日はその全員が「本当のことは何も知らない」人たちです。

あなたに違和感をもたせるような言動をする人がいても、感情を動かす前にやることがあります。

「この人は何がしたいのだろう? 本当は何を伝えたいのだろう?」

これまで以上の最大級の興味が沸き上がっているはずです。そのまま、何かがわかるまでじっくりと観察してください。おそらくそのときのあなたは、自分がしゃべる時間の何倍もの時間を「相手の話を聴くこと」に費やすでしょう。

もしかしたらその日、周囲の人がひどく動揺するような出来事が起こるかもしれません。みな、「これはヤバいことになる」「とてもマズイことが起こったぞ」と不安を口にすることでしょう。

けれどもあなたは、その出来事が未来に何をもたらすか「本当のことは何も知らない」ことを知っています。であるならば、先を読むのではなく、

「いま、本当は何が繰り広げられているんだ? いま、自分は何をすればいい?」

と、「いまここ」で現実に起こっていることだけを凝視しながら、想像や妄想ではなく、観察によって判明したリアルな事実を元に自分のすべきアクションを導き出してください。

その後、帰宅してテレビやYouTubeを観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりするときも、まったく同じ「本当のことは何も知らない」モードでとにかく観察しまくります。要は、就寝中を除いたすべての時間を観察に費やすということです。

野球にたとえるなら、これまでの私たちのやり方は「知っている」を前提としたデータ重視の戦法です。相手のピッチャーがどんな球を投げてくるかを過去のデータを元に分析し、「次はカーブが来る」と予測して打ちに行きます。

「知らない」が前提の観察戦法は、いっさいの読みを捨てて、ピッチャーが投げたボールをただ見つめることに専念します。おそらく、この打ち方では頭で「あ、ストレートだ!」などと判断している暇はありません。

観察した球筋に反応して自然と身体が動き、打ったあとに「あれ? フォークボールだったかな?」などと思い出しながら、大声援のなかダイアモンドをゆっくりと一周している。そんな感覚だと思います。

あなたが想像するとおり、24時間の観察生活は、それに慣れるまで大変な感じがするでしょう。ものすごく面倒でただ疲れるだけと思うかもしれません。

けれども、いったんこれを習慣にできたら、身軽で楽しく、どんな出来事にも即座に対応でき、けっして平安な心を失わない自分がいることに気づくでしょう。そうなれば、以前のやり方には戻れなくなるはずです。

Photo by Satoshi Otsuka.