「平安な心」なしにはしあわせを得られない

今日は「平安な心」について考えてみたいと思います。

私たちは「どうすればしあわせになれるか?」をイメージするとき、なぜか現状よりも圧倒的に楽しかったり、充実していたり、満足していたりする自分をイメージします。

「いやいや、まだまだこんなもんじゃない!」

という感覚といってもいいでしょう。

そこで、たとえば、

「しあわせとはある種の刺激である」

と予想し、「思い描いていたゴールを達成する」「勝利を勝ち取る」「成功を収める」「スペシャルなイベントを開催する」「高い評価を得る」などの、非日常的な体験を求めようとします。

あるいは、

「しあわせは自分の外側からやってくる」

と思い込み、いい服を着る、いい車に乗る、豪華な食事を摂る、いい家に住む、美女や美男と結婚するなどの、「しあわせの証し」を手に入れようとします。

ある日、その希望どおり、いま挙げたような「しあわせの刺激」や「しあわせの証し」がすべて手に入ったとしましょう。当然、あなたは「しあわせの絶頂」に到達しているはずです。

では、そのとき、自分のもっとも身近にいて、もっとも信頼を寄せる家族のひとりが、あなたを心から失望させたり、激怒させたりするような発言をしたとしたらどうでしょう。

いま、あなたの心はグラグラと揺れ動いています。胸のあたりは鉛でも詰まっているかのようにずっしりと重たくなっています。心臓の鼓動もどんどん早くなり、得体のしれない「恐れや不安」が押し寄せてきます。

「しあわせの刺激」や「しあわせの証し」をすべて手に入れたあなたは、そんな心の状態であっても「自分のしあわせは消えていない!」と言い切れるでしょうか。

拙著で「グッドバイブス」を生み出す「いい感じ」を、

「心に恐れや不安がない状態」

と定義しました。これを私は「平安な心」と呼んでいます。

そして「平安な心」とは、スマホにとってのiOSやアンドロイドOSにあたる、「しあわせのOS」(オペレーションシステム)のようなものです。

それぞれの人が自分の役割に沿って行う「しあわせを得るための何か」は、「しあわせのOS」の上で動くアプリだとイメージしてみてください。

「しあわせのアプリ」として何を選ぶかは各自の自由です。誰も「しあわせはこれしかない!」などと、他人のアプリを定義することはできません。

けれども、その土台となる「しあわせのOS」は、万人に共通して「平安な心」ではないかと私は考えます。その理由はすでに述べたとおり、グラグラと揺れ動く心の上に何を積み重ねても、けっしてしあわせを感じることはないからです。

一見、特別なことは何も起こっていないように見える「平安な心」は、私たちが想像する以上に貴重なものだということです。

だからこそ、真にしあわせを望むなら、「恐れや不安」「罪悪感」「未来の予測」「過去を思い悩むこと」など、心を揺らす要因をすべて手放し、自然とそれらを生むことになる「分離感」から抜けだし、「ひとつ意識」の中で「平安な心」を得る努力から始めるべきではないでしょうか。

その意味で「グッドバイブス」とはまさに、「しあわせのOS」なのです。

Photo by Satoshi Otsuka.