自分を苦しめる世界を自分自身で創造しない

私は、すべての人が例外なくグッドバイブスを携えてこの世に生まれてきたと考えています。

そして、その子が他の人々を「自分を攻撃するかもしれない危険な敵」とみなしていたか、それとも自他の区別を感じないほど平安な心でいたかと聞かれれば、当然、後者だと答えるでしょう。

生まれたばかりの私たちは「ひとつ意識」をもつ存在だったということです。

ところが、成長する課程の中で、怒りや悲しみや失望を抱かずにはおれない出来事に遭遇し、そのたびに当初のグッドバイブスにノイズのようなものが混入していきます。

こうして、私たちは次第に「ひとつ意識」を忘れ、現在のように「バラバラ意識」の中で生きるようになったというのが、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』の根底にある考え方です。

そこで私は、本来の自分がもっていた「ひとつ意識」に帰るための具体的な方法として、3つの入り口を提案しました。

それが、

・「意味づけ」を手放すこと
・「いまここ」にいること
・「罪悪感」を手放すこと

です。

これらすべてに共通するのは、私たちが生きていく中で溜め込んでしまった「ノイズ」を除去する効果があることです。

そこで、今週は拙著の原点に戻って、それぞれが「何を取り去ってくれるのか?」をあらためて見直してみようと思います。今日のテーマは「意味づけ」です。

「意味づけ」とは、

「そうでない可能性があるにも関わらず、そうであると自分で結論づけること」

です。

たとえばあなたが、知人に頼みにくいお願いをメールで伝えたとします。すぐに返事が来ましたが、その内容は「いま立て込んでいるので、あとであらためて返信します」でした。

もし、ここであなたが、「ああ、これは暗に、忙しいからそんな依頼は受けられないと言っているに違いないな」と予想したとしたら、それは間違いなく「意味づけ」です。

なぜならば、その知人がどんな意図で「あとで返信する」と書いてきたのか、本当のことをあなたはまだ知らないからです。

「まかしとけ!」と言いたいけれど、それをいい感じで伝える時間がなかっただけかもしれません。期日などの条件を調整すればできると書きたいけれど、メールにあるとおり、立て込んでいてそれができなかったのかもしれません。

それなのに、あなたが「きっと断りたいんだな」と思ったとしたら、他の可能性を無視して、自分でひとつの結論を出していることになります。予想が当たっているかどうかに関わらず、そのような判断はすべて「意味づけ」なのです。

では、「意味づけ」は私たちにどのような「ノイズ」がもたらすのでしょうか。

これによって私たちは、

「自分の見る世界、生きる世界を、より望ましくないものに変えていく」

ようになります。

先の例で言えば、知人から最終的な返事が来るまでの数時間のあいだ、「私の頼みは聞き入れてもらえなかった」という失望の世界、「知人はやっぱり冷たかった」という血も涙もない非情な世界を、自分自身で創り出していたということです。

もしあなたが、知人のメッセージに書かれてあった文言、「いま立て込んでいるので、あとであらためて返信します」をありのままに受け取ったとしたらどうでしょう。「YES」でも「NO」でもない、何も起こっていない世界がそこにあるだけではないでしょうか。

多くの場合、私たちは無意識のうちに「意味づけ」を行います。そのため、失望の世界や非情な世界を感じたときに、

「自分とは関係なく最初からそこにあった」

と錯覚します。

けれども、それは大きな誤解です。拙著の第7章で書いたように、

「私たちは、自分の見る世界を自分自身で創造している」

のです。

「仕事でダメ出しをくらった」「全力を投じたプロジェクトがうまくいかなかった」「期待するような評価を得られなかった」「思い描いたように人生が進んでいない」などの一見、望ましくないと感じる出来事は、現実として私たちの前に現れます。

けれども、その出来事が自分の人生にどのような影響をもたらすのか、それによって自分がどこに導かれていくのか、結果として吉と出るか凶と出るかは、その時点では知るよしもありません。

あとはあなたの「意志」次第です。悲惨な出来事、不幸な出来事、やる気をなくす出来事、取り返しのつかない出来事などの「意味づけ」をした瞬間に、世界はあなたが見たいと思うそのままの姿で固まってしまうのです。

ぜひ、

「私たちの思考には、自分の生きる世界を創造する力がある」

と捉えてください。

テレビやインターネットなどのメディアでは、日々、目を覆いたくなるような事件が報道されます。多くの場合それは、映像やコメントなどのショッキングな演出を伴って私たちに届きます。

場合によっては、心を痛めたり、恐怖を感じたりするでしょう。でもそこで、「ああ、人間というのはやっぱり油断ならないなぁ」「世の中には危険が溢れているなぁ」と安易に判断することが自分にどのような影響をもたらすかを、慎重に吟味してほしいのです。

自分自身のリアルな体験であろうと、メディアやSNSなどから得た伝聞であろうと、「意味づけ」をしたくなるような出来事に遭遇したとき、最初にやるべきことはひとつしかありません。

「私はこのことについて、本当のことは何も知らない!」

という事実を素直に受け入れることです。

過去の経験や実績、それまでに得た知識や情報もけっして万能ではありません。この世界でまったく同じことは二度と起こらないからです。

すべての「意味づけ」は「自分は知っている」という思い込みから生じます。これさえ手放してしまえば、「意味づけ」をしようとしてもできないことに気づくはずです。

どんなときでも、「なんでもわかっている」という傲慢さをもたず、

「謙虚であること」

を心がけるだけで、私たちは負の世界の創造から逃れられます。

そうして、できるだけ先入観や思い込みのない、まっさらな自分で「現実に起こっていること」を見に行ってください。真実がわかるかどうかはあまり問題ではありません。その姿勢が重要なのです。

「本当のことを知りたい!」という思いで対象に向き合うとき、私たちの中に「ひとつ意識」を思い出すための大切な感覚が芽生えます。

それは、

「これはいったいなんだろうと、相手を凝視したくなる興味」

です。

そもそも、「嫌いだ」「不快だ」と判断した人や出来事に興味などもてるはずがありません。けれども、そのような「意味づけ」を手放して「知ろう」とした瞬間に、好むと好まざるとに関わらず、あなたの中に「興味」が生まれます。

そして、

「興味とはすなわち愛」

です。

「意味づけ」によって望ましくない世界を創造したあなたは、「恐れや不安に基づく選択」をするでしょう。「興味」には、それを「愛に基づく選択」に変える可能性が秘められているのです。

「ひとつ意識」への最初の入り口は、「意味づけ」を手放すことです。それは、「自分を苦しめる世界を自分自身で創造する」という「ノイズ」を洗い流すことにほかなりません。

そして、そのためのスタート地点は、いつでも「自分は本当のことを何も知らない」という姿勢であることを忘れないでください。