終わりを意識しなければいまここにいられる

今日はこんな素朴な疑問から始めましょう。

「なぜ私たちは時間という概念を必要とするのか?」

「2人以上の人が特定の場所に同時に集まるため」「複数の人々でひとつのプロジェクトを進行させるため」「ダラダラと人生をムダに過ごさないため」など、さまざまな理由が考えられます。

けれども、どの答えもこの疑問の本質をかすっているようで、当たらず遠からずといった感じが否めません。私もいろいろと思案を重ねた結果、次のような結論にたどり着きました。

「なぜならば、私たちはいつかこの世から消えてなくなるから」

もっとストレートに言うならば、「人生に終わりがあるから、それをカウントダウンするための尺度が必要になった」ということです。

もちろんあり得ない話ですが、もし、私たちに永遠の命が与えられているとしたらどうでしょう。たとえば、何かを成し遂げるのに、何百年、何千年、何万年かかったとしても、それが遅いだ早いだなどと気にする人はいないでしょう。

会いたいと思う人にも、永遠の人生の中で「いつか会えればいい」わけで、日時を決めて待ち合わせる必要もありません。このような世界では、おそらく時間という概念はまったく意味をなさなくなるはずです。

実はこのたわいもない夢物語、私たちが「いまここ」にあるために大いに役立つのです。なぜならば、「いまここ」にあるとは、私たちが頭で創り出した過去や未来という概念、すなわち時間の概念から抜け出すことにほかならないからです。

先の話の中に、その状態を実現するための重要なヒントがあります。それは、

「私たちは終わりを意識すると時間の概念に囚われる」

というものです。

だからといって「永遠の命が与えられていると思って行動しろ」などという、無理な思い込みをするわけではありません。

もっと現実的に、そして単純に、

「何かを始めるときに、終わりを意識するのをやめる」

だけです。

まずは大好きな人とのデートや、心待ちにしていたコンサートなど、あなたが楽しいと思うイベントで試してみてください。これまでなら、そのような心躍る何かが始まった瞬間に、あなたの中には「ああ、これが終わらなければいいのに」という思いが芽生えていたはずです。

中盤にさしかかったころにはなんども時計を見ながら「ああ、あと数時間で終わってしまう」と、すっかり別れの寂しさのほうに心を引っ張られていたのではないでしょうか。

当然このとき、私たちは「いまここ」にいません。こうして、せっかくの楽しいイベントを、終わりを気にすることによって自分自身で薄めてしまった経験を誰もがしているはずです。

たしかに終わりはイヤなものです。けれども、「終わり」もまた一瞬の出来事に過ぎません。その瞬間を迎えていない「いまここ」に未来の終わりを持ち込まなければ、有意義な時間は濃厚なまま続くということです。

楽しいイベントでのトライがうまくいったら、次は「大変だろう」「苦労するだろう」と予想する場面で同じことをやってみます。

もしかしたら、職場に足を踏み入れたとたん、「ああ、今日も早く終わってほしい」と願っている自分がいたときかもしれません。あるいは、苦手な仕事に着手するときや、家族にあまりやりたくないことを頼まれたときかもしれません。

「よし、もう終わりのことはいっさい考えないぞ!」

そう決意して動き始めてください。

できればその間、時計をいっさい見ないのがおすすめです。そもそも時計を見てしまうのは終わりが気になっている証拠です。時間の制限がある場合は、1時間前か30分前あたりにアラームが鳴るようにしておけばいいでしょう。

うまくいけば、これだけであなたの中から「焦り」や「急ぎたい」「とっととかたづけたい」といった思いが消えるはずです。同時に、次第に時間がゆったりと流れているような感覚になり、目の前のことに集中し始めた瞬間、それまであった時間の概念が消え去ります。

この状態が体験できれば、「終わりを意識しないいまここ作戦」は大成功です。アラームが鳴ったとき、同僚が帰り支度を始めたのを見たとき、「あれ? もう終わったの?」と、いつもより圧倒的に時間が早く過ぎていたことに気づくでしょう。

Photo by Satoshi Otsuka.