「人生に無駄なことはない」と言えるやり方

今日は拙著に書いた「人生に無駄なことなどひとつもない」について考えてみたいと思います。

まず、ある行動が無駄かどうかを判断するためには、ぼんやりとでも「自分の人生をどんなものにしたいか」を定める必要があります。人生の目的のようなものがなければ、いま行っていることが無駄かどうかを判断しようがないからです。

たとえば、それが「有意義な人生をおくりたい」だったとします。こうして文字にするとかなり漠然としていますが、実際には「やりがいのある仕事をして、自分が満足できる成果を出して、しあわせな家庭を築く」などのディテイルもそれなりに決まっているとしておきましょう。

ここから、私たちはある「予測」を行うことになります。それは、

「そのような人生を実現するために、具体的に何をすればいいのか?」

というアクションプランのようなものです。

あとは、自分の行動がこのアクションプランに則ったものか、それとも外れたものかを見極め、前者なら「その実現に貢献する行動」、後者なら「無駄な行動」と判断すればいいわけです。

もし、本来なら「有意義な人生」を実現するために何かを学ぶべき時間を、ソファーに寝そべってSNSを眺めたり、YouTubeを観たりすることに費やしたとしたら、当然、「今日は無駄なことをしてしまった……」と判断することになります。

ここで注目してほしいのは、ここでの無駄かそうでないかの選別が、

「自分の思い描く人生を実現するであろう行動の予測は正しい」

という前提の上に成り立っているという点です。

いい機会なので、あらためて「有意義な人生をおくるには何をすればいいか?」をイメージしてみてください。おそらく、すぐにいくつかの行動が思い浮かぶことでしょう。

そこでもう一度、次のことを真摯に自問してみます。

「そのようなことをすべて行えば、本当に有意義な人生になるのか?」

「間違いなくそうなるに決まっている!」と主張する人も少なくないでしょう。けれども私には、とてもそのように言い切れる自信はありません。

なぜならば、

「自分の人生がどのように転がっていくかを完璧に予想することは不可能」

だと思うからです。

まず、たとえ数日後であっても、未来に起こることを正確に予測することはできません。さらに、たまたま出会ったある人物が、自分の今後の人生にどのような影響を与えるのかも、まったくの未知数です。

ここに、ふたつの異なるやり方が姿を現します。

① 人生は自分の読みどおりに進むことを前提に、完璧なシナリオを用意してその想定に従って進める。
② 人生は自分の想像をはるかに超えた複雑な道をたどることを前提に、自分のシナリオを手放し、目の前で起こる現実にその場、その場で対処しながら進める。

どちらの道を行くかは、それぞれが決めることです。

ただ、もし①を選んだ結果、いつも自分自身を追い込んでいるような感覚に襲われたり、予定どおりに進まないことに「恐れや不安」を抱え続けていたりするようなら、やり方を再考してみる余地はあります。

②の進め方には「予定の行動」という概念がありません。

「自分が実際に行った行動すべてに意味がある」

と捉える世界です。

根拠などいっさいなしに、「すべてはうまくいくことになっている」という、ある種の信念からスタートするといってもいいでしょう。

ここでは、ソファーに寝そべってSNSを眺める時間もまた、「有意義な人生に必要な何かに出会える可能性を過ごした」「その息抜きの時間が次の行動のために不可欠だった」とみなします。

「ただ失敗しただけ」「ただ負けただけ」「ただサボっただけ」と判断することもありません。それもまた、何かを学ぶ貴重な機会にほかならないからです。

これが、冒頭に書いた「人生に無駄なことなどひとつもない」と感じられるやり方です。

「そんなの甘すぎるよ!」「行き当たりばったりで、確実性に欠けるよ!」と思うかもしれません。それもまたひとつの「予測」です。

余裕があるときに数日間でかまいません。②の道が本当にぬるま湯のようで、何かを実現するにはほど遠いやり方なのか、ぜひ、実際に試してみてから判断してください。

Photo by Satoshi Otsuka.