ある日、あなたがこんな疑問をもったとします。
「はたして、今年で8歳になる自分の息子は優秀なんだろうか?」
そもそも「優秀が何を意味するか?」などの、細かいことは置いておきましょう。それよりも、
「あなたは、どうやってこの答えを出そうとするか?」
を考えてみてほしいのです。
自分の子どもをじっくりと眺め、彼がこれまでにしてきた言動や、日ごろの立ち振る舞い、テストの点数、ときどき一緒にやるゲームの采配などを思い出しながら、あなた自身で「この子は優秀かどうか?」の判断を下すでしょうか。
それとも、クラスでの順位がどのくらいか、彼の成績が全国平均より上か下かなどの、客観的なデータによって答えを出そうとするでしょうか。
前者は、自分の子どもだけを見て決めたという意味で「絶対的な評価」です。後者は、他の子どもと比べた結果なので「相対的な評価」ということになります。
今日はこの2つの評価のうち、どちらが信頼に値するのか、そして、どちらが私たちの頭で創り出した「イリュージョン」なのかを探っていこうと思います。
たとえば、あなたがGINZA SIXや、三井アウトレットパークなどの大きなショッピングモールに服を買いに行ったとします。
「今日は、気に入ったものを見つけるまで、歩き回ることになるだろうな」と予想していましたが、なんと最初にふらっと立ち寄った店で、「おお、これはかなりいいぞ!」と思えるジャケットに出会います。
ここで質問です。
「あなたは、偶然にも一発で見つけたその服を、何の躊躇もなく買うか?」
「もちろん!」と即答する人もゼロではないでしょう。でも、ほとんどの人は、
「いや、まだ一軒めだし。やっぱり、モール内の全部の店で服を見て、それがベストチョイスであることをちゃんと確認してから買う」
と答えるのではないでしょうか。
別のこんな状況ならどうでしょう。引っ越しをすることになったあなたは、不動産屋で物件を紹介してもらっています。家賃や駅からの距離、その他の希望に沿った間取り図を見せてもらい、気に入ったものをいくつかピックアップしました。
幸運にも、その中のひとつにいますぐ内見できる物件があり、あなたはさっそく担当者と一緒に現地に向かいます。マンションに到着してみると、外装から内装、陽当たり、立地環境まで、まさにあなたの理想にピッタリの大当たりでした。
さて、またまた同じ質問です。
「あなたは、その時点で他の物件を見ることをやめ、何の躊躇もなく、そのまま不動産屋に戻って契約を済ませてしまうか?」
こちらも、モールの場合とまったく同じ結果になるでしょう。先の答えの「服」を「物件」に変えるだけなので、あえてもう一度、書く必要はありません。
どちらのケースも、最初の「おお! これはいいかも!」という閃きや直感は、ひとつの服、ひとつの物件を見て下した「絶対的な評価」です。もし、私たちがこちらに信頼をおいているなら、即買いや即決をするはずです。
けれども、そんなことができる人はかなりの少数派です。ほとんどの人は、自分のインスピレーションをあっさりと引っ込め、できるだけ多く、他の服や物件を見て、「比べること」で正しい答えを得ようとするのです。
つまり私たちは、自分の主観よりも他との比較、すなわち、
「絶対的な評価よりも、相対的な評価のほうが信じるに値する」
と確信しているということです。
なるほど。たしかに、グッドバイブスにも、主観の極みである「意味づけ」を手放して、ありのままの現実を見に行くというメソッドがあります。
視点を変えてみれば、このとき私たちは、
「自分も含めたあらゆる状況を、フラットな目で客観視しようと努力している」
とも捉えられます。
ただし、それはけっして「相対的な評価」ではありません。「意味づけ」というフィルターを外して人や世界を凝視しながら、「現実」に本当のことを教えてもらおうとしているだけです。
さらに言うならば、グッドバイブスとは「しあわせになるためのメソッド」です。そこには次のような前提があります。
「本来、しあわせな存在として生まれてきた私たちが、自分自身を苦しめるような意味をつけたとしたら、それは間違っている可能性が高い」
つまり、手放すのは、自分自身で怒りや苦悩などの、望ましくない感情を生み出すことになる「負の意味づけ」だけでいいのです。
たとえば、観光地などで絶景を目にしたあなたが、「なんて素晴らしい景色なんだ!」と心を振るわせたとします。このときの感情は、あなたのエネルギーを奪いとる類いの「嫌なもの」ではないはずです。
当然ですが、ここで「いや、この素晴らしいという感覚は意味づけかも?」などと疑う必要はいっさいありません。そのまま、自分の見たものを信じて、感動としあわせを満喫すればいいだけです。
先の服や物件を目にして湧き起こった、「おお、これはかなりいいぞ!」というフィーリングも同様です。それが自分に、できればもちたくない嫌な感情を喚起しないのであれば、自分の判断を信じることに何の問題もありません。
この意味で、自分をしあわせにする「絶対的な評価」と、グッドバイブスの考えはまったく矛盾しないのです。
さて、話を戻しましょう。もしあなたが、全国平均をもとに息子さんの優秀度を判断したなら、「相対的な評価」を信じていることになります。
最初のフィーリングよりも、他との比較によって買う服や物件を決めたとしたら、やはり同じように「相対的な評価」をより信頼しているということです。
では、この相対的な価値観に基づいて、
「いま、自分は本当にしあわせなのか?」
を測ろうとしたらどうなるかを、かなりリアルにイメージしてみてください。この答えを知るために、あなたは何をしたいと思うかを想像してみてほしいのです。
少なくとも、自分の行っている仕事、ともに暮らす家族、ふだんの生活ぶり、所有しているもの、できること、知っていることなど、ただあなた自身にまつわる事柄だけを見て、「しあわせか?」を判断しようとは思わないはずです。
なぜならば、それは絶対的な価値観であって、相対的ではないからです。実際に行うのは、次のことではないでしょうか。
「しあわせそうに見える他の人と比較して、見劣りがしていないかを確認する」
ここから何が始まるかを、さらに掘り下げてみましょう。
とはいっても、私たちには「しあわせそうに見える人」の心の中まではわかりません。このとき比較の対象になるのは、
「あの若さで起業して大金もちになった」
「美人の奥さん、イケメンの旦那さんをゲットした」
「ピカピカの豪邸を建てた」
「ソーシャルメディアに大勢のファンがいる」
「5か国語を自在にあやつり、世界を股にかけて活躍している」
などの目に見える表面的な部分だけです。
さらにいえば、私たちが比べようとするのは、「ひとりのしあわせそうな人」とはかぎりません。メディアやSNSで「しあわせそうな人」を見かけるたびに、あなたは彼らを比較の対象に加えようとするでしょう。
その結果、
「何百人ものしあわせな人生をゲットした人々 VS 私」
という図式の中に自分を置き、四方八方を見渡しながら、「この人たちと比べて、自分の人生は見劣りしていないか?」を確認しなくては、正しい答えを出せなくなってしまいます。
あるとき、つい油断して、他の人と比較することなどすっかり忘れたあなたが、「ああ、いま自分はしあわせかもしれない!」と感じてしまったとします。
その瞬間、あなたは「相対的な評価のほうを信頼すべき」という自分に課したルールのようなものを思い出すでしょう。
服や物件の話と同じように、自分のフィーリングを早々に引っ込めて、「ああ、あの人たちと比べるとまだまだだなぁ」と、失望することを選んでしまうかもしれないのです。
ぜひ、ここで次のことを自問してみてください。
「このような、相対的なしあわせを求める旅に、本当に終わりはあるか?」
「このような、相対的なしあわせを本当に得られる人は、世界に何人いるか?」
もし、あなたの答えが「たぶん、終わらない」「世界に数人しかいない」だとしたら、冒頭に挙げた「絶対的な評価」と「相対的な評価」のうち、
「どちらが私たちの頭で創り出したイリュージョンなのか?」
についても考えてみてください。
このブログで繰り返し書いてきたように、イリュージョンとは幻影、すなわち「無」です。「無いもの」を追い求めても、得られることはありません。
もしかしたらここに、私たちが、
「どれだけ努力しても、どれだけ何かを成し遂げても、なぜかまだ足りない、まだ途中だという感覚から抜け出せない」
と感じる最大の原因が潜んでいるかもしれないのです。
この機会にもう一度、
「自分の息子の優秀さを、彼自身を見て判断する!」
「一発めのフィーリングを信じて、他を見ずに決める!」
「自分がしあわせかどうかは、人と比べずとも、自分の胸に聞けばわかる!」
という「絶対的な評価」が、親バカや、思い込みや、ひとりよがりにすぎないのか、それが本当に信頼に値しないものなのかを考え直してみるのも、わるくないと私は思います。
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