自力で自己を実現するというイリュージョン

前々話と前話で、「理想の自分」と「有意義な時間」について書きました。実は、この2つのイリュージョンは同じ根っこから生まれています。それは、

「自己実現」

という発想です。

そこにはまず、「自分は何者かにならなくてはいけない!」というゴールのようなものがあります。と同時に、「それを自力で達成しなければならない!」というルールのようなものもつけ加えられています。

つまり「自己実現」とは、

「自他ともに価値ある存在と認められるよう、自力で自分を高めていけ!」

という、自分の人生に課したしあわせの条件といっていもいいでしょう。

もちろん、それを満たすべく努力を重ねることで、実際に充実した日々を送っている人も少なくないと思います。

でももし、このレールからドロップアウトしたような感覚をもちながら自信を失い、これから何をすればいいのかさえわからなくなったとしたらどうでしょう。

やはり、そのような人はいわゆる「負け組」として、息を潜めながら生きていくしかないのでしょうか。

少なくとも、私が見ているグッドバイブスの世界では、そんな馬鹿げた話はありえません。そこで今日は、この「自己実現」というイリュージョンを疑ってみようと思います。

まずは、自力で行う自己実現には必然的に、

「相対的な価値観が不可欠である」

という点から見ていきましょう。

相対的などというと、何やら難しい話に思えるかもしれませんが、中身はいたって単純です。要は、一般的に言われる「自己実現」には、次の2つの役割を担う「自分以外の他者」が必要になるということです。

① 自分を評価してくれる他者
② 自分の比較対象となる他者

自己実現を目指す人は日々、自分を高めようと研鑽を重ねます。でも、よく考えてみると、「どの方向に高めていくか?」は千差万別であることがわかります。

毎日12時間以上をゲームに費やし、ゲーマーとしての腕を「高めていく」こともできれば、異性をナンパしまくってプレイボーイやプレイガールとしての資質を「高めていく」こともできます。

もちろん、人をだますテクニックを極めて詐欺師としての能力を「高めていく」のも、方向性としてはありです。

でも、多くの自己実現を目指す人は、そのような分野にはけっして手を出そうとしません。理由はあえていうまでもなく、

「それでは多くの人が評価してくれないから」

です。

自己実現とはつまり、独力で「自分という作品」を創り上げるようなものです。そしてその取り組みは、基本的に誰も見ていないひとりの時間に行われます。

もし、「自分を高めること」だけが目的ならば、ほかでもない、自分自身が「できた!」と認めれば完成とみなしてもいいはずです。

ところが、この旅がそれで終わることは絶対にありません。最後の仕上げに、

「おお、君という人間はすごいね!」

と、羨まれたり、ほめられたりすることで、ひとまずの区切りがつくのです。

ただし、その評価者として、ゲーマー仲間やプレイ○○仲間や詐欺師仲間はまったくふさわしくありません。なぜならば、もっと多数派の「ふつうの人」たちでなくては、「世間に認められた!」という手応えを感じられないからです。

この一連のメカニズムによって、私たちの「自分を高める方向」は自然と、針の穴のように絞られていきます。それは、

「世の中の大多数が評価してくれるような人物になる!」

という、かなり限定された方向です。

もしかしたら、このことを自覚している人はあまりいないかもしれません。けれども、私たちが定めるゴールには、①の「自分を評価してくれる他者」、しかも多数派の他者の価値観が少なからず混入してしまうことだけは確かです。

もうひとつ、自己実現には欠かすことのできない登場人物がいます。それが②の「自分の比較対象となる他者」です。

学校でも会社でもそうですが、実は、自分ひとりだけが評価される場面というのはそれほど多くありません。「この学年で頭のいい人は誰?」「この会社でデキる人は誰?」という話題になったとき、たいていは数人の名前が挙がるはずです。

本来は、自分がその中にいるという事実だけで満足してもよさそうなものですが、ほかにも評価される人がいるとなると、「自己を実現する!」旅は道半ばになってしまいます。

そこでは当然、次のような疑問が沸き上がってきます。

「で、自分はその中で何番なの?」

起業して会社を興し、商品やサービスをヒットさせて「成功した社長」になれたとしても、同じ経営者が集まるパーティーで、自分の10倍、100倍の利益を上げる「もっと成功した社長」を見るたびに、「自己、いまだ実現ならず!」という状態に戻されてしまうのです。

つまり、「自分を評価してくれる他者」から認められると同時に、「自分の比較対象となる他者」に勝ち続けるという、2つの外的な要因が揃って初めて、私たちは「自己実現に近づいた!」と実感できるということです。

あえて「近づいた」と書いたのは、このうちの「他者に勝ち続ける」というプロセスには、基本的に終わりがないからです。

もしここまでを読んで、「だからスリリングで、まさに生きていることを実感できるんじゃないか!」と言えるとしたら、冒頭に書いたように、このやり方がその人の個性にとてもマッチしているのだと思います。

けれども、76億の違いをもつ私たちのすべてが、「自己実現の成功法則に沿って生きていればしあわせになれる」と考えるのは、あまりに無理があるのではないでしょうか。

たとえば、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』のプロローグで私は、

「自分の外側にその条件を置いた瞬間に、しあわせは運任せになる」

と書きました。

この「外の事柄にしあわせの条件を委ねるやり方を一変させる」というのが、グッドバイブスの出発点でもあるのです。

「自分を評価してくれる他者」によってゴールが設定され、「自分の比較対象となる他者」を上まわることでそれが達成されるという発想は、まさにこの真逆にあります。

「自力で」といいながら、実は自分の力量や采配だけではどうにもならない勝負に挑んでいるように見えないでしょうか。このあたりに、イリュージョン特有の矛盾が潜んでいると私は考えます。

さらに、自己実現の世界に登場する「比較対象となる他者」と自分はいつでも、

「利害が競合する」

ことになります。

それは、バックナンバー「刺激と得ることがもたらすしあわせ」で書いた、

「得たことに喜びを感じるためには、それを得ていない他人が必要になる」

という、あまり気持ちのよくない世界の中で生きることを意味します。まさに、グッドバイブスでいうところの「バラバラ意識」の世界です。

では、その反対の「ひとつ意識」では、自己実現という概念はなくなるのでしょうか。自分を「生まれながらに理想の完璧な状態」と捉えるところから始まるこちらの世界には、そもそも「まだ自己が実現していない」という発想はありません。

その代わりに、「自分とはどのような役割を果たす人か?」を知るための旅が待っているように思います。ただしそれは、自力だけで孤独に行う取り組みではありません。

やはり今話の話とは真逆の、自他の利害が完全に一致した状態で、自分の外側にいる「他者」ではなく、「つながり」を感じられる「他の人たち」との関係の中で、

「自分とはどういう存在かを教えてもらう旅」

になると私は考えます。

拙著でいうところの「しあわせな役割に導かれる」という感覚です。それがどのようなものかを、次話で詳しく書いてみようと思います。