時間に「有意義」や「無意味」があるのか?

よく「有意義な時間」という表現を耳にします。「有意義」の反対語は「無意味」なので、「無意味ではない時間」、すなわち「意味のある時間」とほぼ同義語となります。

これを私たちは、

「有意義な時間を過ごさなくてはならない!」

という教訓のような形で使っています。

このブログの読者の方ならわかるとおり、現在、過去、未来のうち、実在する時間は「いまここ」だけです。ということは、私たちの「いまここ」は、過ごし方によっては無意味であったり、有意義であったりするということなのでしょうか。

時間と空間は、私たちが生きる環境そのものです。それをどのように捉えるかによって、人生そのものの見え方も大きく変わってきます。そこで今日は、この「有意義な時間」というイリュージョンを疑ってみようと思います。

まずは、「なぜ、私たちは時間の過ごし方に、善し悪しのラベルをつけたがるのか?」の理由を解き明かしておきましょう。

私は、2つの事柄が大きく影響していると予想します。ひとつはやはり、

① 「人生の時間には限りがあるから」

ではないでしょうか。

寿命というものは確実に存在します。見方によっては、「生まれた瞬間から終焉に向けたカウントダウンの中で生きている」と人生を捉えることもできます。

刻一刻と失われゆく自分の時間。この切羽詰まった感覚の中では、たしかに「1秒もムダにできない!」と思いたくなるのは必然です。

ただ、私に言わせれば、この説の正しさはかなりひいき目に見て「半分」程度にすぎません。なぜならば、

「私たちは誰ひとりとして、終わりのときを正確に把握できていない」
「私たちは誰ひとりとして、終わりのときを体験できない」

という2つの事実があるからです。

それがいつ来るか不明なうえに、それ自体を体験することがないとするならば、

「私たちの人生に、実質的に終わりは存在しない」

という説も十分に成り立つと私は考えます。

人生の時間は有限か無限か。この問いの答えは自分で出すしかありません。けれども、「限りがある!」を選んだ瞬間に、あなたは「いまここ」にいることがとても困難になります。

なぜならば、このブログで繰り返し書いてきたように、締切であろうと恋愛のエンディングであろうと、

「終わりを意識した瞬間に、私たちのエネルギーは仮想の未来へ放出される」

からです。

それだけでなく、

「終わることへの恐れや不安」

を抱くたびに、私たちは「平安な心」を失っていきます。

結婚式の真っ最中に「ああ、あと何年しかこの人とは一緒にいられない」などと考える人はまずいないはずです。もちろん、結婚生活が始まっても同じです。

もし私たちが、離婚のことなど考えずにしあわせに暮らせるならば、人生の終わりを気にせずに生きることも、けっして不可能ではないのです。

2つめの理由はおそらく次のような考え方にあります。

② 「人生の時間は、自分の成長のために使うべきだから」

バックナンバー「絶対に変わらない自分の価値を認めるヒント」で書いた、「右肩上がりの成長志向」によるものです。

この発想によって、私たちはまず、時間の過ごし方を次の3つに分類します。

A:自分を高める時間の過ごし方
B:現状維持の時間の過ごし方
C:自分をダメにする時間の過ごし方

そうしておいて、自分の人生を、なるべくAの時間で埋めようとするわけです。

学校時代はもちろん、社会人になっても、このやり方は圧倒的に「正しい」とされています。これ以外にしあわせになる方法はないくらい多くの支持を得た、人生の成功法則といってもいいでしょう。

ではここで、一度だけ立ち止まって次の問いについて考えてみてください。

「時間の過ごし方ABCの評価は誰がするのか?」

先日、スポーツクライミングで頭角を現してきた、ある女性選手のドキュメンタリー番組を観ました。名前もどの国の選手かも忘れてしまったのですが、世界大会で表彰台すれすれにいる有望な新人だったと思います。

2020年の東京オリンピックでは、絶対にメダルを獲得したいとの思いから、彼女は生活のすべてを練習に捧げる毎日を送っていました。ただ、この数か月は成績が伸び悩んでいたことから、世界でも有数のコーチに指導を受ける決意をします。

意気揚々と練習場に現れた彼女に対して、コーチが贈った言葉がこれでした。

「君は練習ばかりしているね。もっとリラックスする時間を作りなさい」

意外なアドバイスに驚きながらも、素直な彼女はさっそく休みを取ります。そうして最初に行ったのが「リンゴのケーキを作る」ことだったのです。

テレビの画面を通しても、それまでの彼女の鬼気迫る表情が、別人のように穏やかになったのがわかりました。

「長いことやってなかったけど、前から料理が大好きだったの。このケーキもきっと美味しいはずよ!」と満面の笑みを浮かべながら、選手仲間に自作のケーキを切り分ける。名コーチはそんな素敵な時間を彼女にプレゼントしたわけです。

ぜひ、以前の練習の鬼だった彼女なら、「ケーキを作る」という時間を先のABCのどこに分類していたかを想像してみてください。BかCかは不明ですが、「長いことやっていなかった」とするならば、Aでないことだけはたしかです。

私はこの番組で、スポーツクライミングという競技の奥深さを知るとともに、

「時間の過ごし方を判定する審判として、自分ほどあてにならないものはない」

という、極めて重要な事実を教えてもらいました。

おそらく、私たちの中には、超ストイックで超厳しく、超ハイキャリアーであることしか認めない、

「架空の審判」

が住んでいます。それは前話で書いた、無数の成功者の断片を集めて創り出した「理想の自分」なのかもしれません。

その実体のないイリュージョンが、目的もなくYouTubeを観まくるたびに、何時間もゲームに費やすたびに、何もせずにソファーで寝そべるたびに、決めておいたA分類のタスクを先送りするたびに、

「どうして人生の時間をBやCばかりにしてしまうんだ!」

と脅してくるのです。

繰り返しますが、一度でいいので立ち止まって「ABCの判定を下しているのは本当の自分か?」と、「どういう基準で?」を真摯に検討してみてください。そして、「それは絶対に正しいのか?」も冷静に見極めてください。

何を隠そう、私がこの記事でスポーツクライミングの話を引用できたのは、何もやる気が起きずにボーッとテレビを眺めていたおかげです。それは「架空の審判」なら、間違いなく「レッドカードの一発退場」と判定される時間の過ごし方です。

「人生の時間は、自分の成長のために使うべき」という考えは、

「いまここは、すべて自分の将来のために費やされるべき」

と言っているのと同じです。

それはすなわち、

「未来に実現させたい何かのために、すべてのいまここを手段にする」

ことを意味します。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』 で書いたように、このように時間を捉えた瞬間に、私たちが「いまここ」で行うことは例外なく「手段」に変わってしまいます。そして、何かのための「手段」を心から楽しむことは不可能です。

その結果として、

「たいていのことは、やればやるほど次第に色褪せてしまう」

のではないでしょうか。

今日の結論です。まず、「いまここ」という時間に「有意義」や「無意味」のラベルを貼れるという発想は、残念ながらイリュージョンです。なぜならば、すでに書いたように、その判定を自分自身で行うことはほぼ不可能だからです。

ある行動が何につながり、どのように花開くかなど、私たちの予想を完全に超えています。さらにいえば、76億の違いと個性によって、誰かにとっては無意味なことが、あなたには有意義であってもまったく不思議ではありません。

私も若いころ、分類で言えばCとしか言いようのない、極めて自堕落な生活を何年も送っていたことがあります。

けれども断言しますが、その体験がなければ、私は今日のようなグッドバイブスの考えをもつことはできませんでした。一見、何も生み出さない非生産的な時間に、ありえないくらい多くのことを学んだと確信しています。

だからこそ、

「もっと自分を信じる!」

ことが、何よりも大切だと思うのです。

自分を信じるとは、

「その瞬間に、何をやりたいと思うかの自分のフィーリングを信じる」

ことにほかなりません。

たとえその答えが、「休みたい」「サボりたい」「遊びたい」「くだらないことをしていたい」などの、B分類やC分類に見えたとしても、いっさいの不安を払拭して、そのことに没頭するということです。

「いや、それでは本当に何もしなくなってしまう!」と思うなら、それが真実かどうか、ぜひ予想ではなく、現実のあなたに教えてもらってください。

自分のフィーリングをまったく無視して、「架空の審判」が強要するA分類ばかりを「やらなければ」と思い続けているから、そして実はそれをやりたくないから、私たちは元気を失っているのかもしれないのです。

ひとまずは何も考えずに、大好きな「リンゴのケーキ」を焼いてみてはどうでしょう。それを「いまここ」でやり遂げたあとに、「次は何をしたい?」と、「いまここ」のあなたのフィーリングに聞いてみる価値は十分にあると思います。