いつからそうなったのかはわかりませんが、私たちが強く信じて疑わない「人生の正しい過ごし方」のひとつに、
「ゴールや目標を決めて、その実現に向けて日夜、努力する」
というのがあります。
もちろん、私はその考え方を全面的に否定しようなどとは思いません。おそらく、私もいま、「これがやってみたいな」「この仕事がこう広がっていくといいな」などの願望をもっていると思います。
ただ、少なくとも私は、それが自分の期待する時期に、望むような形で実現しなかったとしても、その結果をもって「なりたい自分になれなかった」と失望することはありません。
なぜならば、何かを達成することは、私にとってただの、
「自分が行うこと」(Doing)
であり、けっして、
「自分とはこのような存在である」(Being)
を決めるものではないと確信しているからです。
多くの人が、ゴールや目標を行動の指針ではなく、「理想の自分になるための手段」と考えています。
そして、それを達成できなかったときだけでなく、達成できた場合でも、依然として「まだ理想の自分になれていない」という苦悩をもち続けることがあります。
だとしたら、そもそも「なりたい自分」「理想の自分」という発想自体が幻想なのかもしれません。そこで、今日はこのイリュージョンを疑ってみようと思います。
拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』やこのブログで書いてきたように、私たちは「等しさ」と「違い」の2つの要素をもってこの世に生まれてきます。これがグッドバイブスの根底にある考え方です。
・ すべての人に等しく宿る、絶対に変わることのない価値と創造力
・ 76億人の違いから生まれる76億分の1の個性
まず、「自分にどれだけの価値があるか?」と「自分はどれだけの創造力をもっているか?」の答えは、例外なく「他の人と完全に等しい」となります。
次に、「自分はどのような個性をもった人間か?」の答えは、「この世界に暮らす76億人のすべてが違う」となります。
ドンズバではないと思いますが、イメージしやすいようにあえて何かにたとえるなら、私たちはみな、
「同じ動力エネルギーを積んだ、76億種類の乗り物のひとつ」
だということです。
注目すべきは、ここまでで「私とはどのような人間か?」の描写はすべて終わっているという点です。それはすなわち、
「私たちは完璧な状態でこの世に生まれてきた!」
という意味でもあるのです。
もちろんこの世界で、それぞれの個性に従って何かを行おうとする際には、相応のスキルや経験を身につける必要はあります。けれどもそれは、先の自分という乗り物にオプション装備をつけたり、パーツを変更したりするような話にすぎません。
けっして、船がトラクターにトランスフォームするかのように、
「あとづけの能力によって、私たちの本質が変化するわけではない」
のです。
ただ残念なことに、それを証明してくれるはずの「自分の価値」や「自分の創造力」「自分の個性」は、どれも目で見て確認することはできません。自分自身で「ある!」と信じなければ、いつしか実在しないものになっていきます。
その結果、私たちは次のような幻想を抱くようになります。
「私はまだ完成していない!」
道半ば、途中、まだまだ不足している、私たちがいつも手放せないでいるあの感覚です。
もし自分が未完成だとしたら、目指すべき完成図を描かなくてはなりません。けれども、自分だけでそれを行うのは不可能です。
なぜならば、すでに私たちは、その唯一のよりどころとなる自分の価値や創造力や個性を「存在しないもの」とみなしてしまったからです。
残る手段は、
「自分から見て、しあわせそうだと思う人を参考にする」
こと以外にありません。
さいわいなことに、いまはインターネットの時代です。成功者した人の生い立ちや暮らしぶり、努力してきたこと、積み上げてきたこと、気をつけていること、習慣にしていることなど、あらゆる情報が瞬時に手に入ります。
SNSなどに投稿される「うまくいった事例」もつぶさに参考にしながら、非の打ち所のない完成図を作り上げようとします。
こうしてできあがるのが、
「理想の自分」
ではないでしょうか。
たしかに、私たちにとって「知の共有」はかけがいのない財産です。書籍やブログなどを通して、ひとりでは得られなかった知識や経験を、他の人の人生から学べるのも素晴らしいことだと思います。
けれどもそれは、
「私もその人のようになりたい!」
と憧れてしまった瞬間に、自分に役立つ情報から、あなたを苦しめるだけのノイズに変わってしまいます。
すでに書いたように、あなたは76億分の1の個性をもつ、他の人とは決定的に違う存在として生まれてきました。だからこそ、
「自分以外のどのような人とも同じにはなれない」
のです。
しかも、冷静に考えてみれば、おそらく私たちが憧れているのは、その人という存在そのものではなく、
「その人が人生で得たもの」
だということがわかります。
それは先に書いた、
「その人が行ったこと」(Doing)
です。
彼らと同じことを成し遂げたいと願うことが問題だとは思いません。けれどもそれを達成しようとしまいと、
「あなたという存在」(Being)
が変わることはないのです。
このイリュージョンから抜け出すためにはまず、「自分は未完成」という考えを手放すことです。
「完成」とは終わりを意味する言葉でもあります。もし、私たちが人生の途中で終わりを経験するとしたら、そのあとはどうなってしまうのでしょうか。万能な存在にでもなるのでしょうか。
やはりどう考えても、「いつか自分は完成する」という発想自体がイリュージョンというしかありません。
だからこそ、「理想の自分になる」ではなく、
「私は生まれながらに理想の完璧な自分である」
と認めることが大切なのです。
その根拠は、他の人と等しく備わっている「あなたの価値」と「あなたの創造力」であり、他の誰とも同じではない、唯一無比の「あなたの個性」です。
「いやいや、とても自分にそんなものがあるとは信じられない!」と思うとしたら、逆にこう自問してみてください。
「どうすれば、私はこれから、自分にない価値と創造力と個性を得られるのか?」
どれだけ考えても、努力を積み重ねても、この答えは出せないはずです。
あなたにも私にも、具体的な方法が見つけられないとしたら、誰ひとりとして、
「価値や創造力や個性を、生まれたあとに手に入れた人などいない!」
ということにはならないでしょうか。
「道半ば、途中、まだまだ不足している」という感覚はイリュージョンです。そうではなく、あなたはいつでも、
「準備完了!」
の状態にいます。
あとはそのことを確信しながら、自由に、心に浮かんだ、
「自分が行うこと」(Doing)
を満喫すればいいだけです。
成功したか失敗したか、評価されたかされなかったか、満足したか不満だったか、楽しかったかつまらなかったかなど、結果がどうであっても大差はありません。
なぜならば、
「あたなという存在」(Beign)
が、それによって何らかの影響を受けることは、これからもありえないからです。
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