昨日の記事を読んだある人から、「たしかに、自分の意志でいつでも本気になれるとしたらすごいことだと思います。でも、実際にはなかなかやる気が出ないんですよね」という話を聞きました。
私はその瞬間、「お、これはおもしろいテーマを見つけたぞ!」と思い、ちょっとうれしくなりました。それは、彼の短い言葉の中にあった2つの気、
「本気とやる気」
です。
まず私は、「ということは、本気になるにはやる気が必要なのか?」と考えました。次に、「だとしたら、いつも本気でやることをモットーに行動している自分は、どんなときでもやる気で満ち溢れているのか?」と自問してみました。
もちろん答えは「NO!」です。そもそも私は、子どものころから生粋のなまけ者でした。物心ついたときから今日まで、「できれば何もしたくない!」が口癖です。
ということは、「やる気」がなくても「本気」になれるということなのでしょうか。考えれば考えるほど謎は深まるばかりです。
そこで今日は、その答えを解き明かすために、「本気」と「やる気」の違いを探ってみようと思います。
それほど時間をかけることなく、すぐにひとつの事実が判明しました。両者はその気持ちを発揮するタイミングの点で大きく異なります。
やる気:何かをする直前までの気持ち。
本気:何かを行っている瞬間の気持ち。
多くの場合、あなたが「ああ、やる気が出ない」と言うのは、まだやっていない状態のときであるはずです。ということは、
「やる気とは、未着手のことを実行する未来を想像すると湧いてくる気持ち」
ということになります。
これが「やる気」の一面です。ただし、そのまま何かをやり始めても、いっこうに「やる気が出ない」こともたしかにあります。
たとえば、「文章を書く気になれないと感じて、しばらく机に向かえなかったが、意を決して書き始めても、数行を書いた時点で、やっぱりやる気が出ないと筆を置いてしまった」という経験を、私も何度かしています。
ただ、これと似たようないくつかの状況を振り返ってみると、何かを少し行ったあとに、自分の心の中で頻繁に「中断」が起きていたことに気づきました。そのたびに、「次のアクション」について考えていたように思うのです。
このときの様子をわかりやすく図式化すると、次のようになります。
「実行する→中断する→次にやることを想像して、またやる気が失せる」
つまり、私たちにとっての「やる気」とは、目の前にある事柄ではなく、いつでも少し先のこと、すなわち「未来」に対して抱く気持ちだということです。
これに比べると、もう一方の「本気」はとても単純です。何かを行う前に「本気になる」などということはありえません。「本気」という気持ちが発揮されるのは、どんなときでも「いまここ」だけです。
さて、このブログの読者なら、すでに「やる気」の正体を見破っているはずです。そう、実際には存在しない「未来」を想像して沸き起こる気持ちは例外なくイリュージョンです。
もし「やる気」がイリュージョンならば、それは私たちが現実に行動する際には、まったく意味のないものということになります。
同時に、そのような無用の長物は、いとも簡単に手放すことができるというのが、グッドバイブスの考え方でもあるのです。
では、どうすれば私たちは、「やる気」というイリュージョンから解放されるのでしょうか。
まず、「やる気がある!」という状態も、「やる気が出ない」という状態も、同じように何かを行う際には、いっさい不要であることを受け入れてください。
一見、「やる気に満ち溢れている」のはわるくない感じもしますが、そもそも、
「満ち溢れさせるから、失われることもある」
のです。
高いモチベーションとまったく同じように、「やる気」もちょっとした外的要因によって、いとも簡単に最低のところまで落ちてしまう、もろくて儚い「気分」にすぎません。そんな山の天候のようなものを頼りにするのは、キッパリとやめておくのが得策です。
次に、私たちが人生で行うことは、大きく分けて次の3種類であることをしっかりと認識しておきます。
A:やりたくなくても、やらないという選択ができないこと。
B:やりたくなければ、やらなくてもかまわないが、やったほうがベターなこと。
C:やりたくなければ、やらなくてすむこと。
当然ですが、仕事の大半は、私たちに選択の余地がないAで占められます。このことは、会社員だけでなく、スーパースターであろうと世界的に有名な企業のCEOであろうと変わりはありません。
ミック・ジャガーにも、原則としてキャンセルできないツアーやレコーディングなどの予定があるし、Facebookのマーク・ザッカーバッグも、分刻みの逃れられないスケジュールに追われているはずです。
一方で、家に帰ると待ち受けているのが、前話でも書いた「家族からの依頼」です。多くの人にとって、これがBにあたるはずです。こちらは仕事におけるAとは違って、断ろうと思えば、やらずにすませることは可能です。
けれども、何年にもわたって、家族からの依頼をすべて拒否し続ければ、おそらく何らかの悲劇が訪れることは間違いありません。あなたがしあわせな家庭を創りたいと心から望むなら、思い切ってAに入れておくのもわるくない選択だと思います。
Cはあなたがひとりで行うことです。これに関しては「やる気」のことを考える必要はほとんどありません。この話から除外してもいいでしょう。
こうしてみると、私たちが人生で行うことの多くには、
「やるかやらないかの選択の余地などない」
という極めて重要な事実が浮かび上がってきます。
「やる気」の話をしていると、つい、私たちが日々の行動を自由自在に選択できるような錯覚に陥いりがちですが、それこそがまさにイリュージョンなのです。
すでに書いたように、「会社員だから不自由」などということはありません。
私のような自営業者もアーティストも芸術家も、最初の「何を始めるか?」は自分の意志で決められたとしても、仕事として一歩を踏み出した瞬間から、「やらないという選択ができないこと」で、ほぼすべての時間が埋められてしまうのです。
私が、「やる気」をまったく信じなくなった最大の理由がここにあります。モジモジしたところで、結局はやるしかないことに対して、やりたいか、やりたくないかを毎度、毎度、自分に問う意味がどこにあるのでしょうか。
「いやいや、好きなことなら自然とやる気も起こるでしょう」と思ったとしたら、大きな誤解です。
それは、「子どものころから野球が大好きでプロ野球選手になった人なら、24時間365日、いつでも野球の練習がしたと思っているに違いない」と信じ込むようなものです。
ぜひ、バックナンバー「面倒くさいと思ったら何をすればいい?」で書いた、「ああ、面倒くさい」を連発しながら絵コンテを描く、宮崎駿監督の話を読んでみてください。
「好きなこと」と、そのときどきで「やりたい」と感じる気分とは、まったく関連などありません。とくに、それが自分の仕事であるならなおさらです。
ここまでの話をまとめましょう。
「やる気」は、出せたとしても出せなかったとしても、
「近未来を想像することで生まれるイリュージョン」
にすぎません。
しかも、外的な要因や自分の体調などに大き
く左右される、いたって不確かな気分であって、とても私たちが頼りにできるような代物ではありません。「やる気を持続させる」などという発想は、最初から無理があったということです。
そして、私たちが人生で行っているのは、「やらないという選択ができないこと」ばかりです。だとしたら、私たちにとっての最良の選択は、
「やる気のことなど考えるのをやめる」
ことではないでしょうか。
それはすなわち、
「実際に着手するまで、その行動のことを頭に思い浮かべない!」
と決意することでもあります。
「それこそ無理な相談だよ!」と思うかもしれませんが、これまで書いてきたメカニズムを把握すれば、
「考えれば考えるほど、やる気を失うことは必然」
という事実に気づけるはずです。
「それだけはなんとしても避けたい!」という思いが強ければ、次の行動について考えないようにすることなど、たいした苦労ではありません。結局は、自分をしあわせにしたいかどうかの、意志の問題なのです。
さて、残る課題は先の図式で表した、「何かをやり始めても、いっこうにやる気が出ない状態」をどうするかだけです。
ほかでもない、これを解決してくれるのが「本気モード」です。断言しますが、私たちは「やる気」があろうとなかろうと、一瞬で「本気」になれます。
例によって、すでに3,500文字を超えてしまったので、この続きはまた別の機会に書こうと思います。今日のところはひとまず、かなり怪しい「やる気」とだけは縁を切っておいてください(笑)。
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